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2012
明けましておめでとうございます。
当ブログ、昨年の10月より仕事で出張作業に出かけてからというもの
その後のブログの更新をえらい長々~とサボったまんま・・・
ついには年をまたいでしまいました。
特に病気になってしまったとか、ブログに対して投げやりになってしまったとか、
そういうことではありません。
ある心境の変化で、ちょっとばかり私生活のリズムを変えてみようと試みたところ、
それに3ヶ月の期間を要してしまいました。
長々とご心配をおかけしてすみませんでした。
近々、ブログ訪問ならびに記事の再開をしようと思っておりますので、
皆様にお変わりなければ、昨年と同様、今年も宜しくお願いいたします。
当ブログ、昨年の10月より仕事で出張作業に出かけてからというもの
その後のブログの更新をえらい長々~とサボったまんま・・・
ついには年をまたいでしまいました。
特に病気になってしまったとか、ブログに対して投げやりになってしまったとか、
そういうことではありません。
ある心境の変化で、ちょっとばかり私生活のリズムを変えてみようと試みたところ、
それに3ヶ月の期間を要してしまいました。
長々とご心配をおかけしてすみませんでした。
近々、ブログ訪問ならびに記事の再開をしようと思っておりますので、
皆様にお変わりなければ、昨年と同様、今年も宜しくお願いいたします。
神鳴りの来訪~後編(長文):①
「神鳴リ~前編」からの続き~
~「病気や事故で死の淵を彷徨い、九死に一生を得た人の生への喜びや実感、
神秘的な体験といったものが語られるのをたまに目にする事があるが、
僕の場合はそういった、自分が生きていた事に対する喜びというものが、
全く無かったわけではないのだが、自然の脅威というものを目の当たりにして、
”自分は何者でもなかった”という
例えようのないほどの衝撃の方が、生きていた喜びを差し置いて強かったように思う。
ところがその事こそが、自分の生への喜びをよりいっそう強く実感するに至る
とても大切な要素であったのだと確信する。
それは今も尚、そしてこれから先の自分の生(命)においても、
とても重要な事として受け止めている。」~

落雷のあった翌朝、現場では緊急ミーティングが行われ、雷に対する危険予知の徹底が促された。
どうやらあの落雷は、外壁の足場も伝ってきたらしく、数人の職人が感電したが、
手に少しのやけどを負った程度で大事には至らなかった。
自分はというと、一夜明ければスーパーマンのような超人に生まれ変わっていて・・・・
なんていう事はなく、まるで何事もなかったかのように怪我をした箇所も見当たらなければ、
体のどこかに変調をきたしたというような自覚もなかった。
強いて言うならば、体の内部が妙にざわざわというか、ふわふわというか
妙な感覚が残っていて気味が悪いなといった程度であった。
落雷のあった当日、あの時の状況を一応は監督連中に報告しておいたのだが、
自分でも一体なにがどうしてどうなったかなんて事をうまく説明する術もなく、
雷は建物に直撃したという大まかな見解で事は落ち着いたのだった。
後日、雷に関して色々調べると、落雷には直接受ける直撃雷と自分のそばに雷が落ちて
放電をくらう側撃雷とがあるらしいが、直撃雷に打たれても生きている人もいれば、
側撃雷に打たれて死ぬ人もいる。
実は、落雷に遭って死傷するケースのほとんどが、側撃雷によるものらしい。
そのように考えれば、自分は無傷でよく生きていられたなと思う面は確かにある。
「どうして僕は助かったのだろうか?」
あの時、三途の川を渡らずに引き返したとか、光に導かれるままに進んでいったとか、
普段の行いが良かったからだとか、何か特殊な信仰心を持っていたからとか、
電気に強い特異体質だったからだとか、雷と戦って勝ったからだとか、
打たれた時の服装や姿勢などの様々な好条件がそろっていたからとか、
自分が無事であった事に対する、思いつく限りのそのようなよくある手がかりは何一つ
自分に当てはまるところはないし、それならそれで助かった理由をつきとめたいと思う気持ちも
実のところさらさら無く、そんな事は自分の人生によっぽど退屈を感じた時にすればいいや
ぐらいにしか思っていないのだ。
※
※
※

ところで、人は、何かのきっかけで自分という存在の感覚を見失ってしまうことがあるらしい。
それはともすれば、とても恐ろしいことでもあるのだ。
人は皆、自分が誕生した日や名前、性別を持ち、生い立ちといった過程の中で築かれていった
性格やそれにまつわる長所短所、好き嫌い、そして様々な思い出や夢などを持っている。
やがて成人を迎える頃、自分なりの意見や、自分が何者かを表す肩書きといったものを
世間に対して明確に持ち始める。
キミはどんな人?と聞かれて、こういう者ですと説明して、
そうして初めて自分という存在感が、社会という輪の中で立ち上がるのだ。
組織の中で大切な業務を任される自分、世間に何らかの評価をしてもらえる自分、
異性から告白される自分、こうしたらどうか?こんなアイデアはどうか?と発言する自分、
君は優しいねと言われる自分、自分のこういうところは他人に負けないなと思える自分、
ガマンが足りないねと注意される自分、ちょっと人より収入が低いなと思う自分、
人から羨ましがられる自分・・・・・
人の数だけ、その輪の中で立ち上がる自分という存在感があるわけだ。
だが、その存在感というものは、自分の存在を認めてもらえる輪の中において、
常に自分は孤立したくないといった不安や恐怖を同時に抱いている。
当然ながら、大きな意味で社会というものからの疎外、抹殺は、
自分という存在感の消滅を意味し、同時にそれは、自分の命を奪われたに等しいほどの
死にも直結した最大の恐怖をも意味する。
たとえば記憶喪失といったものも、自分の存在感を社会の輪の中に失った事による
疎外感や孤独感といった死を連想させる恐怖の一種であるかもしれない。
ところが、それにちなんだ話で、人は自分の存在感(自己同一性またはアイデンティティー)
といったものが欠落してしまっても、その事自体が自分の命を脅かすものにはならないと
思えるような話がいくつか思い浮かぶ。
たとえば、以前観たある映画(題名は忘れた)で、主人公が記憶喪失になり苦悩に陥る中、
その主人公とその父親とで交わされる会話をなんとなく思い出す。
父:「君は何がほしい(したい)?」
主人公:「記憶を取り戻したい」
父:「なら、動くのだ。自分の価値(存在)を決めるのは記憶ではない。行動だ。」
他にもうろ覚えであるが、以下のような映画を観たことがある。
5人ほどの男が、ある倉庫かどこかで目が覚める。気づくと皆自分の記憶を失っている。
どうやらその5人は、お互い激しい乱闘を繰り広げる最中、
何かの拍子で皆、記憶の喪失と共に気を失ってしまったらしい。
物語が進むにつれ、どうやら、そのうちの2人は誘拐犯であり、
残る3人は誘拐された側の人質であるという事が判明する。
だが、そうとは分かっても自分は誘拐犯なのか、さらわれた人間の側なのか全く検討がつかない。
物語は進み、誘拐犯のボスが相手先との身代金の交渉に失敗したことを知る。
ボスが帰ってくれば、人質は殺されるという展開に・・・・。
皆、絶望感に包まれる。
おまけにその建物は、人質を閉じ込めておけるように簡単には出られない仕組みになっており、
どのようにすれば脱出できるのかも誰一人記憶にない。
もし自分が人質ならば殺されてしまうという恐怖と
いまだ自分は何者なのか分からないという二つの恐怖。
鏡に映る自分の顔を見るといかにも悪そうな顔をしてる。
ひょっとして、自分が誘拐犯なんじゃないかと思い悩む者もいれば、
何の根拠もなく俺は人質に違いないと思い込み、殺される恐怖に震える者もいる。
誰が敵で誰が見方なのか、それを判断する術は失った記憶の中に閉じ込められているのだ。
やられる前にやってしまおうか・・・・だが、そんな事に気をとられている余裕はなかったのだ。
やがて、記憶を失くした者同士にとっては、敵も見方もないという思いが、皆を一つにまとめ始める。
彼らは、全員で力を合わせて、その建物から何とか脱出することを目指した。
~といった具合である。
この話をヒントに、ひょっとしたら人間っていうのは、小難しくもなんともなく、
思ってる以上に実はとてもシンプルな生き物なんじゃないかと思えたりはしないだろうか?
自分が何者であるのかが抜け落ちてしまったら、残るのは自分の命ある姿だけだ。
そこで初めて、社会からの疎外感という死を連想させる恐怖というものが、
実際には自分の命を脅かすほどの威力も何もないと見破る事ができるだろう。
われが何者かという事は、人が行動する(生きる)うえで絶対的に必要な条件なのであろうか?
われが何者かという事は、人と人とが交流するうえで絶対に欠かせない要素なのであろうか?
われは何者かにならなければ・・・・それは死を意味するのだろうか?
人間社会の中で感じている自分という存在は、その輪の中から疎外される恐怖と共に
自分の命というものさえ脅かされるような得体の知れない恐怖に戦いている。
それらを踏まえて考えれば、ある意味、自分という存在感は社会の中でこそ立派に立ち上がる
”確か”な存在のようにも思えるのだが、実は常に危ういところでその消滅の危機に脅かされ、
社会(世間)と懸命に折り合いをつけながら必死に自分という物語を作り続ける事によってのみ、
その自分という存在の確かさが保たれるという、
自然界の自立した存在とは無縁の、どこまでも作り物の悲しい宿命を背負わされた
擬似的存在、または擬似的な生命のようにさえ思えてくる。
そういうものに対して、なぜ、自分の存在感の拠り所としてしがみついたり、
かつ、そこからの消滅の恐怖に怯えなくてはならないのだろうか?
ちなみに年間3万人を超えるほどの人々が自殺/自死にて自らの命を絶つというが、
その中には、自分の存在感を立ち上がらせてくれるはずの社会の輪から、
歓迎もされずに疎外され、生きることが辛くなったとして死に至った人がどれだけいるだろう。
生きていながら、自分の存在感をも与えてもらえず、孤独に染まる悲しみ、恐怖。
それならそうと、その社会の中で自分の存在を自らの手で頑張って必死に見出そうとするが、
自分のすがる社会の中には自分を照らしてくれるものが、ついには見当たらず、
自己の存在の消滅と共に自分の命の幕をも閉じる。
自分という存在感は、社会を拠り所としなければ、成り立たない側面を持っており、
その社会からこぼれてしまった自己という存在は、たちまち拠り所を失くし、
生きていながらにして浮遊する幽霊のごとく暗黒の世界を彷徨う事になるのだ。
そんな恐ろしい世界でもがき苦しむ人々に対して、
生きる力を見出せなどと一体誰が言えるだろう?
そんな君も明日は自分の番じゃないだろうかと心のどこかで怯えているはずだ。
だが、これだけは言える。
我々一人一人が感じている社会の中の自分という存在感を何らかの形で、
見失ってしまう事があっても、それは君の命さえも脅かすほどの恐怖ではないという事を。
もしかしたら僕は間違ってるかもしれないが、
我々が感じる社会の輪の中での存在感(アイデンティティー)というものは、
決して自分の命に根ざしたものではない・・・と言いたい。
仮に多額の借金を背負ってしまい、希望も失くし生きるのが辛いと感じる人がいるならば、
そう感じるのは社会の中の自分であって、決して君の命が発する問題なのではない。
借金を抱えて苦しむために生まれてきた命なんてどこにあるというのだろう?
君がいじめに遭い、社会から抹殺されるように君の存在を無視され、
苦しくて苦しくてたまらないと感じるのも社会の中においての自分という存在である。
だがそれは、君の命の存在とは全く関係がないものだ。
君の命は、いじめられるために生まれてきたのではない。
君の命は、無視されるために誕生したのではない。
その肝心なところを社会の中で生きる一人一人が見失ってはならない。
社会など所詮作り物なのである。
その社会の中で立ち上がる自分という存在感もまた、嘘っぱちの作り物である。
作り物に己の命をあずけてはならない。
君の命は、決して作り物じゃないのだ・・・・。
君の命はどんなに苦しい局面を迎えようともそれが尽きるまで、眩しく輝いていると僕は言いきる。
なぜなら、君の命の存在は、この社会が照らしてくれなくとも、
宇宙の成り立ちという巨大な輪が、君の命の誕生から現在、そしてそれが尽きるまで、
無条件で照らしてくれているからだ。
そもそも命そのものに生きる意味なんてものはない。
生きがいを求める命なんてものもないのだ。
命ある、ただそれだけで君が生きている意味があるのだから。
人間は人間だけの世界を築き、それを拠り所にし過ぎてしまったと同時に
その世界を守りすぎてしまった。
だが、その世界こそが、全てでないという事を一人一人が思い出さなくてはならない。
その世界にこそ、君が君の存在感の拠り所とする何かがあると勘違いしてはならない。
社会の中で叫ばれる生きがいや生きる意味、自分は何者なのだろうか?という問いは、
宇宙の成り立ちから遠く離れてしまった人間同士の退屈しのぎな遊びぐらいに思えばいい。
そしてまた、人間社会においての自分という存在感もまた、
宇宙の成り立ちから孤立してしまった事による孤独感や寂しさを紛らわすための
僕ら一人一人のささやかな自尊の気持ち~ぐらいに思っていればいい。
そうして思えば、君の存在感というものは人間社会の輪よりもっともっと大きな輪の中で、
それが命尽きるまで堂々と光り輝いているという事に気づくことだろう。
そして、自分の命の輝きという確かな道標を手にした君は、
人間社会の輪の中にあろうとも、必要以上に惑うこともなく、喜びや悲しみ、
楽しい事も苦しいことも含めた、君の人生においての全ての物語を
本当の意味で謳歌できるものと信じている。
※
※
実は、自分もまた、自分自身が身を置く社会の中で、自分の存在感というものに
全てを委ねるようにして生きてきました。
この社会においての自分という存在感、それこそが、この世で唯一の確かなもの・・・と
思っていました。
この上ない喜びも経験しました。どん底にて絶望の淵を彷徨い、
死にたいと思うほどの苦しみも経験しました。
他の人と同様に、自分もまたきっと特別な存在なんだと思えるような感覚にこそ、
生きる意味というものを感じ、そこに生きがいを見出してきました。
競争もいっぱいしました。負けて悔しいと思ったり、勝ってうれしいと思ったりもしました。
嘘をついて人を騙したりもしました。
騙されるやつも悪いと感じたりもしました。自分は騙されはしないと勘違いもしました。
ささやかな夢を叶えた事もありました。激しく恋愛をした事もありました。
いろいろと警察に捕まった事もありました。
ゴミを指定された日以外に出すと猫やカラスが喜ぶという事も知りました。
人込みを歩いていて、じゃまだじゃまだと思う事や、前を歩く人をとろいなぁと感じる事も
ありました。しかし、じゃまに思う人やとろいと思う人も自分が作り出しているんだなと
感じる事もありました。
空を見てるとほんとに気持ちいいなと感じる時がありました。
自分もまたそのように、社会にはとにかく色んな事を経験させてもらっているわけですが、
しかし、誤解を恐れずに言えば、そういう自分の存在感のみに根ざした生き方の中で感じる
喜びや悲しみ、辛さや苦しさというものは、必要以上にそれ以下でもそれ以上のものでも
ありません。
何をわかったふりなんかしやがって・・・・と思われるかもしれない。
しかしたとえ、これら自分の感じた事のほとんどが勘違いであったとしても、
少なくとも自ら死ななきゃならないような悲しみや苦しみ、恐怖なんてものはこの世にありません。
それらは、本当の意味での”命”に根ざした生きる喜びや悲しみ、苦しみといったものとは程遠い、
もしくは全く無縁の作りものであると確信します。
その思いは、自分があの時、落雷に遭ったあの瞬間、
自然の脅威を前にして”自分は何者でもなかった”という衝撃に由来するものです。
※
※
(※ 自分の命という表現にはとても神経を使います。ここで述べる”自分の”という表現は、
”全ての命と繋がっている”という感覚のもとでの”自分の”という意味です。
決して人間社会で言うところの”自分だけの”という感覚の意味ではありません。
~今回、色々と書き記したいことが山のようにあり過ぎて、まとめ切れない事態に陥りました。
このタイトルで延々と書き続けるのもアリなのですが・・・・・。
次を~後半②として、このタイトル記事を完結させるつもりでいますが、
書ききれなかった分は、少なくとも今後の記事に何らかの形で反映していこうと思っています。
長文・駄文、失礼!長々と貴重な時間を割いてくださり、どうもありがとうございました。
t-youha)
~「病気や事故で死の淵を彷徨い、九死に一生を得た人の生への喜びや実感、
神秘的な体験といったものが語られるのをたまに目にする事があるが、
僕の場合はそういった、自分が生きていた事に対する喜びというものが、
全く無かったわけではないのだが、自然の脅威というものを目の当たりにして、
”自分は何者でもなかった”という
例えようのないほどの衝撃の方が、生きていた喜びを差し置いて強かったように思う。
ところがその事こそが、自分の生への喜びをよりいっそう強く実感するに至る
とても大切な要素であったのだと確信する。
それは今も尚、そしてこれから先の自分の生(命)においても、
とても重要な事として受け止めている。」~

落雷のあった翌朝、現場では緊急ミーティングが行われ、雷に対する危険予知の徹底が促された。
どうやらあの落雷は、外壁の足場も伝ってきたらしく、数人の職人が感電したが、
手に少しのやけどを負った程度で大事には至らなかった。
自分はというと、一夜明ければスーパーマンのような超人に生まれ変わっていて・・・・
なんていう事はなく、まるで何事もなかったかのように怪我をした箇所も見当たらなければ、
体のどこかに変調をきたしたというような自覚もなかった。
強いて言うならば、体の内部が妙にざわざわというか、ふわふわというか
妙な感覚が残っていて気味が悪いなといった程度であった。
落雷のあった当日、あの時の状況を一応は監督連中に報告しておいたのだが、
自分でも一体なにがどうしてどうなったかなんて事をうまく説明する術もなく、
雷は建物に直撃したという大まかな見解で事は落ち着いたのだった。
後日、雷に関して色々調べると、落雷には直接受ける直撃雷と自分のそばに雷が落ちて
放電をくらう側撃雷とがあるらしいが、直撃雷に打たれても生きている人もいれば、
側撃雷に打たれて死ぬ人もいる。
実は、落雷に遭って死傷するケースのほとんどが、側撃雷によるものらしい。
そのように考えれば、自分は無傷でよく生きていられたなと思う面は確かにある。
「どうして僕は助かったのだろうか?」
あの時、三途の川を渡らずに引き返したとか、光に導かれるままに進んでいったとか、
普段の行いが良かったからだとか、何か特殊な信仰心を持っていたからとか、
電気に強い特異体質だったからだとか、雷と戦って勝ったからだとか、
打たれた時の服装や姿勢などの様々な好条件がそろっていたからとか、
自分が無事であった事に対する、思いつく限りのそのようなよくある手がかりは何一つ
自分に当てはまるところはないし、それならそれで助かった理由をつきとめたいと思う気持ちも
実のところさらさら無く、そんな事は自分の人生によっぽど退屈を感じた時にすればいいや
ぐらいにしか思っていないのだ。
※
※
※

ところで、人は、何かのきっかけで自分という存在の感覚を見失ってしまうことがあるらしい。
それはともすれば、とても恐ろしいことでもあるのだ。
人は皆、自分が誕生した日や名前、性別を持ち、生い立ちといった過程の中で築かれていった
性格やそれにまつわる長所短所、好き嫌い、そして様々な思い出や夢などを持っている。
やがて成人を迎える頃、自分なりの意見や、自分が何者かを表す肩書きといったものを
世間に対して明確に持ち始める。
キミはどんな人?と聞かれて、こういう者ですと説明して、
そうして初めて自分という存在感が、社会という輪の中で立ち上がるのだ。
組織の中で大切な業務を任される自分、世間に何らかの評価をしてもらえる自分、
異性から告白される自分、こうしたらどうか?こんなアイデアはどうか?と発言する自分、
君は優しいねと言われる自分、自分のこういうところは他人に負けないなと思える自分、
ガマンが足りないねと注意される自分、ちょっと人より収入が低いなと思う自分、
人から羨ましがられる自分・・・・・
人の数だけ、その輪の中で立ち上がる自分という存在感があるわけだ。
だが、その存在感というものは、自分の存在を認めてもらえる輪の中において、
常に自分は孤立したくないといった不安や恐怖を同時に抱いている。
当然ながら、大きな意味で社会というものからの疎外、抹殺は、
自分という存在感の消滅を意味し、同時にそれは、自分の命を奪われたに等しいほどの
死にも直結した最大の恐怖をも意味する。
たとえば記憶喪失といったものも、自分の存在感を社会の輪の中に失った事による
疎外感や孤独感といった死を連想させる恐怖の一種であるかもしれない。
ところが、それにちなんだ話で、人は自分の存在感(自己同一性またはアイデンティティー)
といったものが欠落してしまっても、その事自体が自分の命を脅かすものにはならないと
思えるような話がいくつか思い浮かぶ。
たとえば、以前観たある映画(題名は忘れた)で、主人公が記憶喪失になり苦悩に陥る中、
その主人公とその父親とで交わされる会話をなんとなく思い出す。
父:「君は何がほしい(したい)?」
主人公:「記憶を取り戻したい」
父:「なら、動くのだ。自分の価値(存在)を決めるのは記憶ではない。行動だ。」
他にもうろ覚えであるが、以下のような映画を観たことがある。
5人ほどの男が、ある倉庫かどこかで目が覚める。気づくと皆自分の記憶を失っている。
どうやらその5人は、お互い激しい乱闘を繰り広げる最中、
何かの拍子で皆、記憶の喪失と共に気を失ってしまったらしい。
物語が進むにつれ、どうやら、そのうちの2人は誘拐犯であり、
残る3人は誘拐された側の人質であるという事が判明する。
だが、そうとは分かっても自分は誘拐犯なのか、さらわれた人間の側なのか全く検討がつかない。
物語は進み、誘拐犯のボスが相手先との身代金の交渉に失敗したことを知る。
ボスが帰ってくれば、人質は殺されるという展開に・・・・。
皆、絶望感に包まれる。
おまけにその建物は、人質を閉じ込めておけるように簡単には出られない仕組みになっており、
どのようにすれば脱出できるのかも誰一人記憶にない。
もし自分が人質ならば殺されてしまうという恐怖と
いまだ自分は何者なのか分からないという二つの恐怖。
鏡に映る自分の顔を見るといかにも悪そうな顔をしてる。
ひょっとして、自分が誘拐犯なんじゃないかと思い悩む者もいれば、
何の根拠もなく俺は人質に違いないと思い込み、殺される恐怖に震える者もいる。
誰が敵で誰が見方なのか、それを判断する術は失った記憶の中に閉じ込められているのだ。
やられる前にやってしまおうか・・・・だが、そんな事に気をとられている余裕はなかったのだ。
やがて、記憶を失くした者同士にとっては、敵も見方もないという思いが、皆を一つにまとめ始める。
彼らは、全員で力を合わせて、その建物から何とか脱出することを目指した。
~といった具合である。
この話をヒントに、ひょっとしたら人間っていうのは、小難しくもなんともなく、
思ってる以上に実はとてもシンプルな生き物なんじゃないかと思えたりはしないだろうか?
自分が何者であるのかが抜け落ちてしまったら、残るのは自分の命ある姿だけだ。
そこで初めて、社会からの疎外感という死を連想させる恐怖というものが、
実際には自分の命を脅かすほどの威力も何もないと見破る事ができるだろう。
われが何者かという事は、人が行動する(生きる)うえで絶対的に必要な条件なのであろうか?
われが何者かという事は、人と人とが交流するうえで絶対に欠かせない要素なのであろうか?
われは何者かにならなければ・・・・それは死を意味するのだろうか?
人間社会の中で感じている自分という存在は、その輪の中から疎外される恐怖と共に
自分の命というものさえ脅かされるような得体の知れない恐怖に戦いている。
それらを踏まえて考えれば、ある意味、自分という存在感は社会の中でこそ立派に立ち上がる
”確か”な存在のようにも思えるのだが、実は常に危ういところでその消滅の危機に脅かされ、
社会(世間)と懸命に折り合いをつけながら必死に自分という物語を作り続ける事によってのみ、
その自分という存在の確かさが保たれるという、
自然界の自立した存在とは無縁の、どこまでも作り物の悲しい宿命を背負わされた
擬似的存在、または擬似的な生命のようにさえ思えてくる。
そういうものに対して、なぜ、自分の存在感の拠り所としてしがみついたり、
かつ、そこからの消滅の恐怖に怯えなくてはならないのだろうか?
ちなみに年間3万人を超えるほどの人々が自殺/自死にて自らの命を絶つというが、
その中には、自分の存在感を立ち上がらせてくれるはずの社会の輪から、
歓迎もされずに疎外され、生きることが辛くなったとして死に至った人がどれだけいるだろう。
生きていながら、自分の存在感をも与えてもらえず、孤独に染まる悲しみ、恐怖。
それならそうと、その社会の中で自分の存在を自らの手で頑張って必死に見出そうとするが、
自分のすがる社会の中には自分を照らしてくれるものが、ついには見当たらず、
自己の存在の消滅と共に自分の命の幕をも閉じる。
自分という存在感は、社会を拠り所としなければ、成り立たない側面を持っており、
その社会からこぼれてしまった自己という存在は、たちまち拠り所を失くし、
生きていながらにして浮遊する幽霊のごとく暗黒の世界を彷徨う事になるのだ。
そんな恐ろしい世界でもがき苦しむ人々に対して、
生きる力を見出せなどと一体誰が言えるだろう?
そんな君も明日は自分の番じゃないだろうかと心のどこかで怯えているはずだ。
だが、これだけは言える。
我々一人一人が感じている社会の中の自分という存在感を何らかの形で、
見失ってしまう事があっても、それは君の命さえも脅かすほどの恐怖ではないという事を。
もしかしたら僕は間違ってるかもしれないが、
我々が感じる社会の輪の中での存在感(アイデンティティー)というものは、
決して自分の命に根ざしたものではない・・・と言いたい。
仮に多額の借金を背負ってしまい、希望も失くし生きるのが辛いと感じる人がいるならば、
そう感じるのは社会の中の自分であって、決して君の命が発する問題なのではない。
借金を抱えて苦しむために生まれてきた命なんてどこにあるというのだろう?
君がいじめに遭い、社会から抹殺されるように君の存在を無視され、
苦しくて苦しくてたまらないと感じるのも社会の中においての自分という存在である。
だがそれは、君の命の存在とは全く関係がないものだ。
君の命は、いじめられるために生まれてきたのではない。
君の命は、無視されるために誕生したのではない。
その肝心なところを社会の中で生きる一人一人が見失ってはならない。
社会など所詮作り物なのである。
その社会の中で立ち上がる自分という存在感もまた、嘘っぱちの作り物である。
作り物に己の命をあずけてはならない。
君の命は、決して作り物じゃないのだ・・・・。
君の命はどんなに苦しい局面を迎えようともそれが尽きるまで、眩しく輝いていると僕は言いきる。
なぜなら、君の命の存在は、この社会が照らしてくれなくとも、
宇宙の成り立ちという巨大な輪が、君の命の誕生から現在、そしてそれが尽きるまで、
無条件で照らしてくれているからだ。
そもそも命そのものに生きる意味なんてものはない。
生きがいを求める命なんてものもないのだ。
命ある、ただそれだけで君が生きている意味があるのだから。
人間は人間だけの世界を築き、それを拠り所にし過ぎてしまったと同時に
その世界を守りすぎてしまった。
だが、その世界こそが、全てでないという事を一人一人が思い出さなくてはならない。
その世界にこそ、君が君の存在感の拠り所とする何かがあると勘違いしてはならない。
社会の中で叫ばれる生きがいや生きる意味、自分は何者なのだろうか?という問いは、
宇宙の成り立ちから遠く離れてしまった人間同士の退屈しのぎな遊びぐらいに思えばいい。
そしてまた、人間社会においての自分という存在感もまた、
宇宙の成り立ちから孤立してしまった事による孤独感や寂しさを紛らわすための
僕ら一人一人のささやかな自尊の気持ち~ぐらいに思っていればいい。
そうして思えば、君の存在感というものは人間社会の輪よりもっともっと大きな輪の中で、
それが命尽きるまで堂々と光り輝いているという事に気づくことだろう。
そして、自分の命の輝きという確かな道標を手にした君は、
人間社会の輪の中にあろうとも、必要以上に惑うこともなく、喜びや悲しみ、
楽しい事も苦しいことも含めた、君の人生においての全ての物語を
本当の意味で謳歌できるものと信じている。
※
※
実は、自分もまた、自分自身が身を置く社会の中で、自分の存在感というものに
全てを委ねるようにして生きてきました。
この社会においての自分という存在感、それこそが、この世で唯一の確かなもの・・・と
思っていました。
この上ない喜びも経験しました。どん底にて絶望の淵を彷徨い、
死にたいと思うほどの苦しみも経験しました。
他の人と同様に、自分もまたきっと特別な存在なんだと思えるような感覚にこそ、
生きる意味というものを感じ、そこに生きがいを見出してきました。
競争もいっぱいしました。負けて悔しいと思ったり、勝ってうれしいと思ったりもしました。
嘘をついて人を騙したりもしました。
騙されるやつも悪いと感じたりもしました。自分は騙されはしないと勘違いもしました。
ささやかな夢を叶えた事もありました。激しく恋愛をした事もありました。
いろいろと警察に捕まった事もありました。
ゴミを指定された日以外に出すと猫やカラスが喜ぶという事も知りました。
人込みを歩いていて、じゃまだじゃまだと思う事や、前を歩く人をとろいなぁと感じる事も
ありました。しかし、じゃまに思う人やとろいと思う人も自分が作り出しているんだなと
感じる事もありました。
空を見てるとほんとに気持ちいいなと感じる時がありました。
自分もまたそのように、社会にはとにかく色んな事を経験させてもらっているわけですが、
しかし、誤解を恐れずに言えば、そういう自分の存在感のみに根ざした生き方の中で感じる
喜びや悲しみ、辛さや苦しさというものは、必要以上にそれ以下でもそれ以上のものでも
ありません。
何をわかったふりなんかしやがって・・・・と思われるかもしれない。
しかしたとえ、これら自分の感じた事のほとんどが勘違いであったとしても、
少なくとも自ら死ななきゃならないような悲しみや苦しみ、恐怖なんてものはこの世にありません。
それらは、本当の意味での”命”に根ざした生きる喜びや悲しみ、苦しみといったものとは程遠い、
もしくは全く無縁の作りものであると確信します。
その思いは、自分があの時、落雷に遭ったあの瞬間、
自然の脅威を前にして”自分は何者でもなかった”という衝撃に由来するものです。
※
※
(※ 自分の命という表現にはとても神経を使います。ここで述べる”自分の”という表現は、
”全ての命と繋がっている”という感覚のもとでの”自分の”という意味です。
決して人間社会で言うところの”自分だけの”という感覚の意味ではありません。
~今回、色々と書き記したいことが山のようにあり過ぎて、まとめ切れない事態に陥りました。
このタイトルで延々と書き続けるのもアリなのですが・・・・・。
次を~後半②として、このタイトル記事を完結させるつもりでいますが、
書ききれなかった分は、少なくとも今後の記事に何らかの形で反映していこうと思っています。
長文・駄文、失礼!長々と貴重な時間を割いてくださり、どうもありがとうございました。
t-youha)
「神鳴りの来訪~前編」

「きっと自分は、死んだにちがいない・・・・」
と、そう思わざるを得ないほどの出来事に、二度遭遇した事があります。
そのうちの一つをこのブログにて書き記そうと思います。
その当時、僕は建築関係の仕事に就いていました。
その日は、一人で屋上階にて作業をしていましたが、
遠くの方で鳴り響いていた雷鳴が次第に近くなっている事に気づき、
”すぐに作業を中断して、建物の中に非難しよう”と思ったその矢先に、それは起きました。
突然、この世のものとは思えないほどの爆音と激しい閃光が、同時に襲ってきたのです。
その爆音は、耳の鼓膜で聞き取るような音の次元を通り越し、
想像も絶するほどの巨大な怪物が突然現れ、大きな怒りの怒号をあげたかのような音であり、
もしくはそれが、物理的な重ささえも伴うような、そんな巨大な音の塊となって、
空を四方八方バリバリと破り裂き、大地を殴り倒し、耐え切れず、地球が苦痛に顔を歪めた音・・・・。
また、同時に襲ってきたその激しい閃光は、自分の体もろとも、この世の全てを一瞬にして無にし、
天も地も存在しない白一色だけの窒息するような世界へと変貌させた恐怖の眩い眼光・・・・。


「雷が・・・落ちてきた・・・・僕に。」
と、そう思ったのは、その激しい閃光と爆音のさなか、
体の内部に経験したこともないような衝撃が走り始めた時でした。
帯状のミリミリとした感覚が、頭のてっぺんから胸へ腹へと内部を波打つように走り始めたのです。
まるで帯状に並んだアリの大群が、僕の体の中を前へ後ろへ、前へ後ろへと縫うように
ザワザワと行進していくような感じにも似ていました。
あの閃光と爆音で、僕は床に叩きつけられたか、または吹き飛ばされたような気もするのですが、
その波打つ感覚を感じている最中は、直立の状態だったようにも記憶しています。
もしかしたら、体が硬直して全く動けなかっただけなのかもしれませんが・・・・。
「・・・・落雷。今、体の中を電撃が走り抜けている・・・・」
かつて子供の頃に見たアニメのよくある感電シーンを一瞬思い出した。
髪はチリチリに爆発ヘアーとなり、体は透けて骨が点滅するように見え隠れし、
全身が黒焦げになったあの姿を。
だが、不思議な事に体は引きつって硬直した感覚はあったものの、
痛いとか苦しいとかといった感覚は、全く感じませんでした。
そればかりか、その波が通過していく様子を心の中で冷静にしっかりと実況中継できたほどです。
その波打つ感覚は、文字通り走り抜けるようでありながら、とてもゆっくりと
穏やかな感じで内部を伝っていくような感覚でもあったのです。
一見、落雷というのは、瞬時の出来事のように思われるのだが、
その状況は、相当に長い時間を要したように思われました。
「はたから見れば悲惨な死に方かも知れないが、当の本人からしてみれば、
その見た目とは裏腹に、痛みや苦しみを通り越して、麻痺した先の穏やかさといった
感覚に包まれながら、ゆっくりと流れる時間の中でだんだんと生と死が交じり合い、
やがて生のフェードアウトを静かに迎えるものなのかもしれないな・・・・。」
「自分は今まさに、その最中にちがいないのだろう・・・・」
※
※
※
やがて遠くの方から、その一瞬に圧縮された長い長い時間の終わりを告げる声がした。
「雷が落ちた!!」
足場に上って作業をしていた職人たちの声だった。
生きている人々が暮らす世界の音は、死んだ者の耳にもちゃんと聞こえてくるものなのか・・・・。
建物内の照明関係は全て落ち、暗雲立ち込める空の暗さも手伝って、
昼と夜とが交じり合ったような、不気味な薄暗闇の中を鋭い緊張が走りぬけ、
現場は一時騒然と化した。
(※落雷の瞬間の映像(外部からの拾い)。再生の際には音に注意!見る人によっては、
非常にショッキングに感じる映像かも知れません。尚、この映像が本物かフェイクかという
事については、僕には判断しかねますが、落雷の瞬間の様子は、自分が遭遇したものと
とてもよく似ています。ですので、補足的な意味合いを兼ねてこの動画を添付しました。)
追伸: RobertColeさんをはじめご来訪の方々、どうもスミマセン!一昨日の記事は、
書き途中のものを手違いでアップしてしまいました・・・・。
とんだ慌て者で申し訳ないです^^;!
川と空に狭間無し

この記事を書いてからアップするまで、気づいたら二週間が経ってしまいました・・・・。
みなさんのブログに遊びにも行けずじまいで・・・・
遅ればせながら、暑中お見舞い申し上げます!
元気でお過ごしでしょうか。もうしばらくすれば、秋の気配が感じられるようになるでしょう。
でも、気を緩めずに。猛暑のぶり返しなんてものが、ないとも限らないのでね☆
先々週、学生時代の仲間たちと神奈川県にある中津川という川に遊びに行きました。
僕らは川の流れの緩るそうなところを探して、水上に仰向けになって浮いたまま、
頭上に広がる青い空を眺めながら、川と空の狭間でしばらくの間、プカプカと漂っていました。
川のゆったりとした流れ、そして空に浮かぶ雲の流れに身を委ねるのは、
何とも言えず心の底から気持ちがいい。
まるで、自分が川や空の雄大さに溶け込んでしまったかのような、そんな感じ。
もしくは、自分がいなくなってしまったようなとても不思議な感覚。
なんでこんなに気持ちがいいんだろう?
それは、自分の泳ぎに自信があり、恐怖感もなく安心して浮いていられるから・・・・ではない。
そんな自信なんか、さっさと自然を相手に木っ端微塵と粉砕されてしまった方がいい。
いくら流れの穏やかな所で浮いてるだけであろうと、油断は禁物である。
たまには流れの変化で頭から水をかぶる事だって当たり前のように起れば、
ついでにガボっと水を飲まされる事だってしょっちゅうある。
空に見とれ過ぎて、静かに隠れていた水中の大きな岩にふいにぶつかる事だって。
日の当たる箇所と日陰の箇所では、水温の差が激しい。
身を突き刺すような冷たさにふいに触れた瞬間、ビックリして思わず恐怖を感じることだってある。
僕らはその日、水しぶきの激しい急流の箇所を泳いで横断したりもしたが、
場合によっては、人間がどうこう出来るものではないと思い知らされたりもする。
思い知らされるばかりか、その事を振り返る間もなく即座に絶命に至る事だって、
どんな人間にも容赦なく起こりうるのだ。
それが自然とふれあおうとする人間の持つべき心構えというものなのだろう。
だけどね、それでも、気持ちがいいんだ。
それはやっぱりね、身を委ねてしまう気持ちよさなんだと思う。
でもね、心が感じるような気持ちよさとは違うんだ。
冒頭に述べたように、まるで自分が心もろとも溶けていなくなっちゃったような感じ。
だから、川と空の狭間に浮かぶ僕は、存在していないのと一緒なんだ。
「川」、「空」と区別をする人間が不在ならば、川や空との狭間も生じない。
そうするとね、ず~っと浮いていられるんだ。うまく言えないんだけどね☆
ちなみに浮くためには、人間が本来持っている浮力に身を任せることが条件だ。
身を任せるのは一体誰だ?もちろん自分自身なのだが、それは自分の心とも言えるだろう。
心が恐怖を感じて邪魔をしてたんじゃ、とても浮くことは出来ない。
それに恐怖におののく心は、呼吸までも強張らせてしまう。胸も萎縮させる。
固く浅い呼吸は、萎縮した胸の浮き袋に十分な浮力を与えてはくれない。
なら、思いっきり息を吸い込んで、胸をパンパンにすればいいってもんでもない。
そんな勢いで吸ったら、やっぱり体が強張ってしまうんだ。
だって、そんな不自然な呼吸を思いつくのは、紛れもなく恐れに満ちた心の仕業なんだしね。
いつもの穏やかな呼吸で十分なんだ。
(※ ちなみに余談ですが、僕は仕事の合間を見つけて、月に合計25kmから30kmほどの距離を
プールで泳ぎますが、突如として顔も水に付けられないほどに全く泳げなくなる時があります。
水に浸かるのでさえ、全身を締め付けられる思いで見る悪夢のようです。
どうしてそのような事態に陥るのかは、最近なんとなく分かりつつあるのですが、
恐らくは「水」そのものが、単純に怖いというわけではなさそうです。
心や精神的な部分が抱いている日常での恐怖が、象徴的に「水」という形を借りて、
僕に迫ってくるのだと思います。ですから、その恐怖に打ち克とうとすればするほど、
その反動で無意味に泳ぎの距離が増えていったと考えるのが妥当だと思っています。
そういった恐怖に辿り着き粉砕することが出来るのは、泳ぐスピードの向上や距離といった
ものではけっしてなく、”そのような恐怖は、実は存在しない”という事を本当の意味で
見破ること以外にないのでしょう。知識の範囲で解決しても意味がないのです。
今回の川遊びにおいて、何かを掴んだ気がしています。その事を通して、
自分の抱いている恐怖が一体何なのかを探っていこうと思っています。
おかしな話ですが、そういった意味では、僕は毎日が小さな冒険みたいものとなっていて、
そのような自分に翻弄させられる事も多いですが、とても充実しているのです☆)
※
~僕は一体どれだけの間、漂っていたのだろう。時間間隔さえも希薄になってしまう。
ふと、視線を空の景色から上流の方へと向けると、仲間が米粒ぐらいの大きさで見えた。
と同時に水中で腹の虫がなった。どうやら昼時の時刻らしい。
僕は我に返ったように、泳いで上流へと戻ろうとした。
だが、流れに逆らって進むのは容易ではなかった。
泳いでる最中、自分が溶けてしまったかのような、あの何ともいえない気持ちよさを思い出しながら、
視線の先にいる米粒大の仲間の姿を見ながら、こう思った。
あの感覚は、地上での日常生活においても、きっと同じことが言えるに違いないんだ・・・・。
ついには息も切れ、泳いで戻るのをほぼを諦めかけた時、
僕は再び下流に向かって漂うことにした。
平成二十三年 盛夏
※ この曲のPV、とても面白い作りになっています。様々な仕掛けがアナログ的に施されていて、
映像が無限に続いていく構成となっています。恐らくは切り張り無しの一発撮りで完成させている
と思われますが、それゆえ、心地のいい緊張感や生身の呼吸みたいなものが伝わってきます。
文字のオブジェを成立させるためのカメラのポジショニングやボーカルの歩くスピードが、
ギリギリのところで納まったりする感じは、ドミノ倒しやピタゴラスイッチを見るような感覚で
ついつい見入ってしまうほどです。
この構成を支えるスタッフの人たちが、画面の外側でどのように動き回っているのかも
思わず想像してしまいます。泥臭く動き回ってるんでしょうね~。いや、案外シンプルなのかな?
それにしても、このバンドのベース、カッコいいなぁ。
「その刹那、すべては宇宙の思い出となる」

それは、瞬く間に始まり
瞬く間に終焉を迎える
瞬く間の出来事。
いのち・・・・

その限られた瞬刻の狭間で
ふたつの灯火が出会えば
ひとつの誘爆を引き起こし
その時走る閃光が
世界をほんの一瞬だけ明るく照らす。
その刹那、人々はこう思う。
「世界は、ぼくらの一瞬の煌(きら)めきでできている・・・・。」
宇宙の歴史と比べれば
それはあまりに一瞬で
思い出にしがみつく間もないままに
ぼくらのそれは
一回きりの華々しい閃光とともに
鮮烈のうちに役目を終えていく。
「このとてつもなく大きな世界は、
そんな小さな煌めきたちの
絶え間ない連なりによって
世界を連綿と照らし続けることでできているのだろう」
あれから間もなく
すでに閉じたまぶたの
皮一枚を隔てた外の世界で、
次の新しい命の煌めきたちが
儚くも世界を一瞬明るく照らす頃、
かつての煌めきだったぼくらの痕跡は
跡形もなく消滅を迎える
そのかわり冷たく閉じたまぶたの内側で
ぼくらは宇宙の記憶と溶け
永遠の今と昇華する。
もし、宇宙に果てはなく
今この瞬間にも宇宙は膨張し続けていると言うならば、
それは一瞬過去の無数の煌めきたちが、
この瞬間瞬間に宇宙の記憶と溶け
宇宙そのものとして昇華していくからであろう。
どんなに小さな煌めきであろうと
それは宇宙の歴史であり、宇宙の思い出なのだ。
そんな思い出の数だけ
宇宙は膨張してゆく。
追記:~先日観たある映画の話なのですが、母親と二人きりで暮らす主人公(子供)が、不慮の事故で母親を亡くしてしまいます。一人きりになってしまったその子供は、あることをきっかけに自分の記憶さえも失ってしまいかねない状況にさらされます。その時の子供の言った言葉が「おっかぁのことを忘れるのは嫌だな。オイラまで忘れちまったら、誰もおっかぁのことなんか覚えていなくなっちまうよ。生きてたことさえ忘れられたんじゃ・・・・」
命の消滅と記憶の消滅・・・・考えれば、どちらも同じように辛いことです。残された側は生きながらにして、なくしてしまった事への折り合いをどのようにつけたらいいのだろうか・・・・。
気休めかもしれませんが、ひょっとしたら、もっと大きな括りで人類全体をひとつの命、ひとつの記憶、いや、宇宙全体をひとつの生命、ひとつの巨大な思い出と思えたなら、それらは永遠にあり続けるもののような気がしてきました。そしてまた、自分自身の消滅についても同様に。
パーフェクト・スカイ
皆さんは、子供の頃から数えて何回ぐらい空を見上げただろう?
と言っても、視界に入ってくる風景の一部に何気なく空を見てるようなことは
いくらでもあるだろう。
だが、意識的に空を見上げたような記憶となるとどうであろうか?
1年に一度くらいの割合?
それとも数年に1度?
遠い遠い過去の記憶?

先日、YOUhaTUBE(ちょっと略してYOUTUBE)でとても不思議な映像を目にした。
それは、ある一人の男性が、浮き輪かなにかを身に着けて、
あれよあれよと空に浮かんでいく様子が撮影された映像なのだが、
それを見て最初はビックリはしたものの、
すぐに「まぁ~よくできたCGだな・・・・」ぐらいにしか思わなかった。
だが、その動画の視聴数は瞬く間に世界規模となったようではあるが・・・・。
だが問題は、その翌日である。
それとよく似たとんでもない映像の数々が何者かによって投稿されたのだ。
~その日、確かに僕らは、見たこともない空の風景を目のあたりにした・・・・。

どこかの河川敷か小高い丘といったところだろうか。
にわかに集まりかけた人々が、空の一点を見上げているような、
そんな光景が映し出されている。
音声を注意深く聞いていると、
「オレンジ!オレンジ!」
「あれ、UFOじゃねぇか?」
「いや、飛行機だろ!」
「衛星かもしれないぜ?」
などと叫ぶように発する人々の声が聞こえる。
後にカメラは、人々が見つめる方向にレンズを向けるのだが、
その映像では、どこに何が映っているのかハッキリと認識することは出来なかった。

だが、他にもそれと似たような映像がいくつもアップされている事に気づく。
↑ これはタイトルに「千葉県上空」と書かれていた映像のものである。
その映像では、何かオレンジ色に光るいくつもの物体が空に漂っているのが確認できる。

こちらは、「神奈川県横浜上空」とあり、やはり先の映像と似たような光景が映し出されている。
これはひょっとして、オレンジ色に光るUFOなんじゃないだろうか?
そういえば、UFOの正式名称はたしか”Unidentified flying orange ”だったような・・・・。
そうだ、間違いない!空飛ぶオレンジだ!未確認飛行オレンジだ!
他にも、様々な投稿者によって日本各地で撮影されたそれらの映像を観ることができた。
どれもよく観れば、それは人間がオレンジ色の浮き輪みたいなものを利用して
浮いているようにも見えるのだが、それといった確証を得るような手がかりは、
何一つつかめなかった。
一体あれは何なのか?
一見、それは日本国内のみで沸き起こった国民的関心事であるかのように思えたのだが、
実は、それと似たような光景は、日本のみならず世界各地で見られた現象であった。
それは、イタリア上空でも・・・・

エジプト上空でも確認された。

パプアニューギニアでは、アメリカ人観光客の手によってそれの撮影に成功している。

そして、ブラジルの空にも、それは現れた。

このように、世界のあらゆるところでその光景が報告されていたわけである。
だが、自分が視聴した時点で、アップされていた動画の大半は削除扱いとなっていた。
僕は、何かただならぬ予感を感じ、全ての動画を保存しようと試みたのだが、
事もあろうに、ダウンロード専用ソフトが不具合を起こし、ひとつも取り込む事が出来なかったのだ。
それから数日も立たぬうちに、それらに関する全ての動画は跡形もなく削除されていた。
あの一連の光景は一体何だったのであろうか?
世界中が見た幻覚だったのだろうか?
それよりも不思議なのは、今ごろ地球上はこの話題で持ちきりであろうと思いきや、
誰もこの話題を口にしていないことだった。
今、自分自身が本当に気になっているのは、あれが何だったのかという事よりも
自分が目の前の雑事に追われる中で、自分の視界の外、上空にはあのオレンジ色が
一瞬でも浮かんでいるんじゃないだろうかと気になってしょうがない事であり、
そんな風には思っていても、あれ以来一度も空を見上げたことがないという事実だ。
気になっているのに、なぜ僕は空を見上げようとしないんだろう?
それ以来、そのような自分自身への疑問は、日々の生活の中で事ある度にしつこくまとわり付いた。
だが、それでも尚、僕は一度たりとも空を見上げようとはしなかった・・・・。

”あれは誰かの悪戯が発端となって沸き起こった、世界的規模の悪戯だったんだよ”

僕らは、子供の頃から数えて何回ぐらい空を見上げただろうか?
見上げたところで、何もないし何も起こらないのが空だというのなら、
その者の空には何もないし何も起こらないのだろう。
一体何時からだろうか?
僕らの生きる世界は、意識的にも空間的にもぺっちゃんこになってしまったような気がする。
それはまるで、空気を失くした浮き輪のように、
何かの拍子に思いが漏れ出て、世界は急速にしぼんでしまい、
中身を失くした平べったい世界の中で、我々は身動きがとれずにいるかのように思えた。
今僕は、もし、あれが本当に悪戯だったとしても、
それは中身のない、ただの悪戯だったのではなく、、
世界が再びふくらみを帯びた懐のある世界に戻ろうとするきっかけを与えてくれるような、
そんな救いなる想いが吹き込まれた宇宙の悪戯だったんじゃないかと
にわかに思い始めている。
と言っても、視界に入ってくる風景の一部に何気なく空を見てるようなことは
いくらでもあるだろう。
だが、意識的に空を見上げたような記憶となるとどうであろうか?
1年に一度くらいの割合?
それとも数年に1度?
遠い遠い過去の記憶?

先日、YOUhaTUBE(ちょっと略してYOUTUBE)でとても不思議な映像を目にした。
それは、ある一人の男性が、浮き輪かなにかを身に着けて、
あれよあれよと空に浮かんでいく様子が撮影された映像なのだが、
それを見て最初はビックリはしたものの、
すぐに「まぁ~よくできたCGだな・・・・」ぐらいにしか思わなかった。
だが、その動画の視聴数は瞬く間に世界規模となったようではあるが・・・・。
だが問題は、その翌日である。
それとよく似たとんでもない映像の数々が何者かによって投稿されたのだ。
~その日、確かに僕らは、見たこともない空の風景を目のあたりにした・・・・。

どこかの河川敷か小高い丘といったところだろうか。
にわかに集まりかけた人々が、空の一点を見上げているような、
そんな光景が映し出されている。
音声を注意深く聞いていると、
「オレンジ!オレンジ!」
「あれ、UFOじゃねぇか?」
「いや、飛行機だろ!」
「衛星かもしれないぜ?」
などと叫ぶように発する人々の声が聞こえる。
後にカメラは、人々が見つめる方向にレンズを向けるのだが、
その映像では、どこに何が映っているのかハッキリと認識することは出来なかった。

だが、他にもそれと似たような映像がいくつもアップされている事に気づく。
↑ これはタイトルに「千葉県上空」と書かれていた映像のものである。
その映像では、何かオレンジ色に光るいくつもの物体が空に漂っているのが確認できる。

こちらは、「神奈川県横浜上空」とあり、やはり先の映像と似たような光景が映し出されている。
これはひょっとして、オレンジ色に光るUFOなんじゃないだろうか?
そういえば、UFOの正式名称はたしか”Unidentified flying orange ”だったような・・・・。
そうだ、間違いない!空飛ぶオレンジだ!未確認飛行オレンジだ!
他にも、様々な投稿者によって日本各地で撮影されたそれらの映像を観ることができた。
どれもよく観れば、それは人間がオレンジ色の浮き輪みたいなものを利用して
浮いているようにも見えるのだが、それといった確証を得るような手がかりは、
何一つつかめなかった。
一体あれは何なのか?
一見、それは日本国内のみで沸き起こった国民的関心事であるかのように思えたのだが、
実は、それと似たような光景は、日本のみならず世界各地で見られた現象であった。
それは、イタリア上空でも・・・・

エジプト上空でも確認された。

パプアニューギニアでは、アメリカ人観光客の手によってそれの撮影に成功している。

そして、ブラジルの空にも、それは現れた。

このように、世界のあらゆるところでその光景が報告されていたわけである。
だが、自分が視聴した時点で、アップされていた動画の大半は削除扱いとなっていた。
僕は、何かただならぬ予感を感じ、全ての動画を保存しようと試みたのだが、
事もあろうに、ダウンロード専用ソフトが不具合を起こし、ひとつも取り込む事が出来なかったのだ。
それから数日も立たぬうちに、それらに関する全ての動画は跡形もなく削除されていた。
あの一連の光景は一体何だったのであろうか?
世界中が見た幻覚だったのだろうか?
それよりも不思議なのは、今ごろ地球上はこの話題で持ちきりであろうと思いきや、
誰もこの話題を口にしていないことだった。
今、自分自身が本当に気になっているのは、あれが何だったのかという事よりも
自分が目の前の雑事に追われる中で、自分の視界の外、上空にはあのオレンジ色が
一瞬でも浮かんでいるんじゃないだろうかと気になってしょうがない事であり、
そんな風には思っていても、あれ以来一度も空を見上げたことがないという事実だ。
気になっているのに、なぜ僕は空を見上げようとしないんだろう?
それ以来、そのような自分自身への疑問は、日々の生活の中で事ある度にしつこくまとわり付いた。
だが、それでも尚、僕は一度たりとも空を見上げようとはしなかった・・・・。

”あれは誰かの悪戯が発端となって沸き起こった、世界的規模の悪戯だったんだよ”

僕らは、子供の頃から数えて何回ぐらい空を見上げただろうか?
見上げたところで、何もないし何も起こらないのが空だというのなら、
その者の空には何もないし何も起こらないのだろう。
一体何時からだろうか?
僕らの生きる世界は、意識的にも空間的にもぺっちゃんこになってしまったような気がする。
それはまるで、空気を失くした浮き輪のように、
何かの拍子に思いが漏れ出て、世界は急速にしぼんでしまい、
中身を失くした平べったい世界の中で、我々は身動きがとれずにいるかのように思えた。
今僕は、もし、あれが本当に悪戯だったとしても、
それは中身のない、ただの悪戯だったのではなく、、
世界が再びふくらみを帯びた懐のある世界に戻ろうとするきっかけを与えてくれるような、
そんな救いなる想いが吹き込まれた宇宙の悪戯だったんじゃないかと
にわかに思い始めている。
「アンニュイなうずまき」
降ってるのか
降ってないのか
分からぬような雨・・・・
エッジの効いてるらしい言動や
メリハリのあるらしいライフスタイルといった
押し付けがましい提案が
いささか幻想気味に渦巻いていたことを
静かに証明するかのように
景色は霞に沈み
おのおのの輪郭が溶けてしまっている・・・・

次から次へと思い出されること・・・・
たとえそれが自分の記憶か
誰かの記憶だったか
はたまた自分のつぶやきか
映画の中での登場人物のセリフだったか
そんなことはどうでもよく
考えてるのか考えてないのか
はっきりとしないスレスレのところで
ただ、それらが降り注ぐままに
ぼ~っと眺めているだけ・・・・
そうしてると頭の中の風景が
次第に何かと馴染んでゆく気がした
そんな時に
急に日が差せば
さっきまでの霞と溶けた景色たちは
おのおの一斉に色味を帯び始め
それらが持っていた
本来の鋭い輪郭線が
瞬く間に本性を現したかと思うと
自分の頭の中の
柔らかな風景を
手術で使うメスのごとく
鋭く硬質な線描で
麻酔もなしに
無理やり解体しようとする
慌てたカタツムリは
しなやかな葉の裏側で
硬い殻の中に閉じこもれば
戸惑う自分は
普段より
少しきつめの化粧を施し
塗りこんだ粉の裏側で
じっと息を潜めながら
冷たい輪郭線に
背をむけるのが
精一杯だった
Nina Nastasia~「Ugly Face 」
(※曲はNina Nastasiaで「The Blackened Air」(2002年)より「Ugly Face 」。思わずジャケ買いしてしまいそうな一枚でした。黒い部分の文字とオレンジの部分の文字の位置が微妙にずれていたり、黒がオレンジを覆い隠そうとする緊張感がたまりません。ちなみに今ではレコードやCDに限らず、小説や漫画でも「ジャケ買いする~」と言ったりするようですね。)
降ってないのか
分からぬような雨・・・・
エッジの効いてるらしい言動や
メリハリのあるらしいライフスタイルといった
押し付けがましい提案が
いささか幻想気味に渦巻いていたことを
静かに証明するかのように
景色は霞に沈み
おのおのの輪郭が溶けてしまっている・・・・

次から次へと思い出されること・・・・
たとえそれが自分の記憶か
誰かの記憶だったか
はたまた自分のつぶやきか
映画の中での登場人物のセリフだったか
そんなことはどうでもよく
考えてるのか考えてないのか
はっきりとしないスレスレのところで
ただ、それらが降り注ぐままに
ぼ~っと眺めているだけ・・・・
そうしてると頭の中の風景が
次第に何かと馴染んでゆく気がした
そんな時に
急に日が差せば
さっきまでの霞と溶けた景色たちは
おのおの一斉に色味を帯び始め
それらが持っていた
本来の鋭い輪郭線が
瞬く間に本性を現したかと思うと
自分の頭の中の
柔らかな風景を
手術で使うメスのごとく
鋭く硬質な線描で
麻酔もなしに
無理やり解体しようとする
慌てたカタツムリは
しなやかな葉の裏側で
硬い殻の中に閉じこもれば
戸惑う自分は
普段より
少しきつめの化粧を施し
塗りこんだ粉の裏側で
じっと息を潜めながら
冷たい輪郭線に
背をむけるのが
精一杯だった
Nina Nastasia~「Ugly Face 」
(※曲はNina Nastasiaで「The Blackened Air」(2002年)より「Ugly Face 」。思わずジャケ買いしてしまいそうな一枚でした。黒い部分の文字とオレンジの部分の文字の位置が微妙にずれていたり、黒がオレンジを覆い隠そうとする緊張感がたまりません。ちなみに今ではレコードやCDに限らず、小説や漫画でも「ジャケ買いする~」と言ったりするようですね。)
「こころのちから」
ART;「ヒカリの記憶より~照射~」 by Teruyuki Youha

きのう、こころの灯りを消してしまった。
かなしい思いの辛さから解き放たれたくて。
でも、どんなにこころを伏せたとしても、
目から入ってくるえげつない光が、僕のこころを的確に照射して、
まぶしくそむける僕の体を、動揺する僕のこころを、
どこか遠くの知らないところへ連れていこうとする。
「ねぇ?僕のこころは悪いことをして捕まっちゃったの?
それともそこに行けば、僕のかなしい気持ちを忘れさせてくれるの?」
次第に不安になってゆく僕のこころが、ほんの一瞬だけ勝手にママの顔を映し出した。
それはどんなにまぶしくえげつない光よりも、強く優しい光に見えた気がした。
本当は、こころの灯りを消すんじゃなくて、
そのえげつない光の方を消せばよかった・・・・。
それに立ち向かう事の出来る唯一の力・・・・・こころの力で。

きのう、こころの灯りを消してしまった。
かなしい思いの辛さから解き放たれたくて。
でも、どんなにこころを伏せたとしても、
目から入ってくるえげつない光が、僕のこころを的確に照射して、
まぶしくそむける僕の体を、動揺する僕のこころを、
どこか遠くの知らないところへ連れていこうとする。
「ねぇ?僕のこころは悪いことをして捕まっちゃったの?
それともそこに行けば、僕のかなしい気持ちを忘れさせてくれるの?」
次第に不安になってゆく僕のこころが、ほんの一瞬だけ勝手にママの顔を映し出した。
それはどんなにまぶしくえげつない光よりも、強く優しい光に見えた気がした。
本当は、こころの灯りを消すんじゃなくて、
そのえげつない光の方を消せばよかった・・・・。
それに立ち向かう事の出来る唯一の力・・・・・こころの力で。
「地球の目玉」

この絵は7~8年前、親友が組んでいたバンドのライブ告知用の
フライヤー(チラシ)として、描いた絵です。
先月アップした”眠る人のスケッチ”を探していた時に、
たまたまひょっこり出てきました。
記憶では、締め切り前日に慌てて(いつもですが・・・)描いたので、
とってもいい加減ですけど。(いい訳ですけど)
ま、基本的に僕の場合、”なぜだか”とってもいい加減な絵が多いのです・・・・☆
ちなみに、なんで目玉焼きかというと、親友がライブで演奏する曲の中に、”朝”にちなんだ
曲があったからだと記憶してます。
当時、朝は必ず目玉焼きを食べていたとか、それが大好きな食べ物だったとかいうわけではなく、
それどころか朝食は食べもしないくせに目玉焼きこそが、僕にとっての朝の象徴でした。
そこで僕は、その目玉焼きがある風景を描こうと思い立ったのです。
テーブルの上の白いお皿と出来立てホヤホヤの目玉焼き・・・・とは、はなから思いもせず、
目玉焼きのある風景は風景でも、誰も見たことのない目玉焼きの風景が描けたらいいな~
という理由だけで一気に描いた絵だと思います。
でも実は当時、コンビニから大量の食品が”無駄”な廃棄物として出されるのを”目”の当たりにし、
その有様に違和感を覚えた自分は、廃棄物の山が当たり前のように、
我々が”目”にする日常の風景に溶け込んでしまった姿をありのままに描こうとしたんだ・・・・と、
ついつい格好いい感じで当時の解説をしようと、記憶の捏造をしかけた時、
目玉焼きの”目玉”に「そんな事しちゃ駄目よ♪」とジッと睨まれた気がしたので、
無駄なカッコつけは諦めて、そのままの事を書いたつもりです。
ちなみに駄目とは、無駄な事も意味します。
「僕はマカロン~後編~」
~前編からの続き~
僕は、以前から「マカロン」という言葉だけは知っていたし、
それが世の乙女たちの心を魅了してやまないスイーツだという事も知っていた。
でも僕は、マカロンを実際に見た事がなかった。
そこで、マカロンという言葉の響きだけを頼りに己の想像力をフルに活かして、
マカロンという謎の実態像に迫ってみようと思い立ったんだ。
でも、それはあえなく失敗に終わってしまった・・・・。
そのことが、あまりにショックだったのだろうか、わけが分からず幻覚まで見てしまう始末。
その状況をどうにも打開することが出来ぬまま、
悶々とした息苦しい苦悩の中で、いつしか僕は眠りに入ってしまった・・・・。
そしたらすぐさま夢に出てきたんだ。幻覚で見た、あのさっきのマカロンが。
あか色、き色、あお色のマカロン。
そして、そのマカロンたちがこう言うんだ。「いっしょに遊ぼうぜ!」
マカロンがしゃべり、いっしょに遊ぼうだなんて・・・・
僕は一瞬、またもや幻覚を見てしまっているのだろかと不安になったが、
すぐにそんな事を気にする必要はないと悟ったんだ。だって夢の中である。
夢の中で見る幻覚は、幻覚じゃなくて現実さ!
その時から僕は、悶々としていた自分がまるでウソのように気持ちが晴れ晴れとした。
いや、さっきまで悶々としていた自分こそが、夢の中の苦しみだったのだ。
そして今の自分は、紛れもなく夢から覚めた喜びそのものなのである。
なんて素敵なことなんだ!
僕は彼等がしゃべろうと何しようと、ちっとも不思議に思わない。
だってそうだろ?これが現実なんだから。
それから僕は、彼等といっしょに近くの公園へと遊びに出かけたんだ。
※
※
※
※

あか色マカロンは、活発。
あお色マカロンは、知的。
き色マカロンは、カレーが大好き。


森の小道をヒョコヒョコと歩くマカロン


すると、あか色マカロンが、遠くに何かを見つけたよ。

わぉ!チューリップ畑だ。
なんだか、翼を広げてダンスをしている鳥のようにも見えるね。
き色チューリップにあか色チューリップ・・・・
あお色マカロンは少しだけ、しょんぼりしてたけど気を取り直してみんなで記念撮影。
「はい、みんな笑って笑って~、ハイ、マ・カ・ロン!」


そのあとは、みんなで追いかけっこをして遊んだよ。
誰がオニってわけじゃないんだけどね。
とにかく追いかけ追いかけられってのが、わけもなく楽しいの☆


ここではね、”お花らしさ”とか”マカロンらしさ”なんてのはないんだよ。
ここにあるもの全てが、そのまんまなんだから。
どこかの県知事だったあの人も、ここではそのまんまなんだ。
そのまんまで、それでいてみんなが仲良しなんだよ。
それはどっかの世界で夢にまで見た風景なんだってね。


き色マカロンがさ、のど渇いたって言うから、水のみ場に連れて行ったよ。
そしたらさ、

蛇口から、ピュ~って水が出てくるのが、面白いんだって。
腹かかえて笑ってたよ。
なんだか僕もいっしょになって笑っちゃった。
懐かしい感覚。
ピュ~で笑うのって。


それからね、みんなでブランコにのったんだ。
ブランコが行ったり来たりしながら、僕らはこんな話をしたよ。
「行ったら来るんだよ。来たら行くんだ。」
「キミの思ってることは、キミだけの”モノ”じゃない。」
「僕が思ってることは、キミが思ってることでもあるし、
キミの思ってることは、僕の思ってることでもあるんだ。」
「だから、”失う”なんて悲しみは、ここには必要ないんだよ。」
「はじめから全てが、キミにも僕にもあるんだ。」
「ただ、はじめから無いものをあったように勘違いしてただけさ。」
「ここにあるのは、無いもの以上にあったものばかりなんだよ。」
「だから・・・・」
あ、そろそろ日が傾いてきちゃたね。


最後に砂場でお山を作って遊ぼうか。

マカロンたち、砂まみれになってお山を作ってた。
そして、そのお山に何度も何度もトンネルを掘ったんだけど、すぐつぶれちゃうんだ。
だから、僕がトンネルの掘り方を教えてあげたんだ。
こんな僕だって、子供の頃にはトンネルを掘ってよく遊んだからね。
僕は少し得意げに、トンネル掘りのかつての腕前をマカロンたちに披露した。
その最中、僕はハッと”何か”を思い出したように、夢中になってトンネルを掘った。
その”何か”をこの手でハッキリと掴み取ろうとするかのように。
そっと息を殺し、静かに砂をつかんでは出し、つかんでは出しの作業を繰り返した。
”思い出した何か”は、きっとトンネルが貫通した先に見える景色の中にあるにちがいない。
そして僕は、その景色の中で思いっきり、空気が吸いたかった。
懐かしく新しい景色と新しく懐かしい空気、そして無色透明な記憶。
きっと僕は、本当の景色を自分の目で、自分の手で、自分の肺で確かめたいんだ。
ただ、それだけだ。
だから、僕は掘った。
トンネルが完成するまで、夢中になって、穴を掘った。


え?なんか変?

変って、どこらへんが?
いやいや、気のせいでしょ?

そんなこと、あるわけないですよ。
いくらなんだって・・・・そんなこと・・・・
あ”ぁ~あ!!やっぱりなぁ!
やっちまった!
失敗しちまった!
あと少しだったのに!
・・・・一瞬の気の緩みだった。
あと一歩でトンネルが貫通するって時に、なぜだか子供の頃のある事を思い出してしまったんだ。
ある時、アリの観察に夢中になっていた時があって、そしたら友達に
「そんなに夢中になったらオマエ、アリになっちゃうぜ!」って言われた事があったんだ。
その事を・・・・不意に思い出してしまって・・・・。
なんでこんな時に・・・・そんな事を思い出すんだ・・・・?
え?まさか!マカロンといっしょに夢中になってる僕の顔が?
マカロンになっちゃってるって?
僕がマカロン?
よしてくれよぉ~、そんなはずないじゃぁぁぁあん。ないじゃぁぁぁあん。
ここは現実だよ~。
え?あれ?ちがうっけ?
ここは夢で、あっちが現実だっけ?
いや、こっちが現実だっけ?
いや、どっちがどっちだっけ?
れれれれれ?
まぁ、どっちでもいいや。
どっちにしたって、自分のやる事が見つかったわけだしさ。
それに「夢中になる」って事の意味がわかったような気がするんだよ。
どっちの世界にいたって、夢中になれば、そこは夢のように楽しい世界なんだ。
それさえ知っていれば、トンネルの向こうだろうがこっちだろうが、どっちも同じ世界なのさ。
え?トンネルいつ完成するのかって?
まぁ、今度にしようよ。
なんだか、疲れちゃったよ。
それにさっきから、妙に頭が重いっていうかさ、
かったるいっていうか、甘ったるいっていうか。
「・・・・・・」
「・・・・・・え?うそ!」
「・・・・・うそだぁ!」

「うそうそ!これ、うそだよ!これ夢だよね~?」
「うそぉぉぉぉおおおだぁぁあああ!」

・・・・まだまだキミはわかってないようだね☆
「それじゃ、またね。次の夢で逢いましょう。」
僕は、以前から「マカロン」という言葉だけは知っていたし、
それが世の乙女たちの心を魅了してやまないスイーツだという事も知っていた。
でも僕は、マカロンを実際に見た事がなかった。
そこで、マカロンという言葉の響きだけを頼りに己の想像力をフルに活かして、
マカロンという謎の実態像に迫ってみようと思い立ったんだ。
でも、それはあえなく失敗に終わってしまった・・・・。
そのことが、あまりにショックだったのだろうか、わけが分からず幻覚まで見てしまう始末。
その状況をどうにも打開することが出来ぬまま、
悶々とした息苦しい苦悩の中で、いつしか僕は眠りに入ってしまった・・・・。
そしたらすぐさま夢に出てきたんだ。幻覚で見た、あのさっきのマカロンが。
あか色、き色、あお色のマカロン。
そして、そのマカロンたちがこう言うんだ。「いっしょに遊ぼうぜ!」
マカロンがしゃべり、いっしょに遊ぼうだなんて・・・・
僕は一瞬、またもや幻覚を見てしまっているのだろかと不安になったが、
すぐにそんな事を気にする必要はないと悟ったんだ。だって夢の中である。
夢の中で見る幻覚は、幻覚じゃなくて現実さ!
その時から僕は、悶々としていた自分がまるでウソのように気持ちが晴れ晴れとした。
いや、さっきまで悶々としていた自分こそが、夢の中の苦しみだったのだ。
そして今の自分は、紛れもなく夢から覚めた喜びそのものなのである。
なんて素敵なことなんだ!
僕は彼等がしゃべろうと何しようと、ちっとも不思議に思わない。
だってそうだろ?これが現実なんだから。
それから僕は、彼等といっしょに近くの公園へと遊びに出かけたんだ。
※
※
※
※

あか色マカロンは、活発。
あお色マカロンは、知的。
き色マカロンは、カレーが大好き。


森の小道をヒョコヒョコと歩くマカロン


すると、あか色マカロンが、遠くに何かを見つけたよ。

わぉ!チューリップ畑だ。
なんだか、翼を広げてダンスをしている鳥のようにも見えるね。
き色チューリップにあか色チューリップ・・・・
あお色マカロンは少しだけ、しょんぼりしてたけど気を取り直してみんなで記念撮影。
「はい、みんな笑って笑って~、ハイ、マ・カ・ロン!」


そのあとは、みんなで追いかけっこをして遊んだよ。
誰がオニってわけじゃないんだけどね。
とにかく追いかけ追いかけられってのが、わけもなく楽しいの☆


ここではね、”お花らしさ”とか”マカロンらしさ”なんてのはないんだよ。
ここにあるもの全てが、そのまんまなんだから。
どこかの県知事だったあの人も、ここではそのまんまなんだ。
そのまんまで、それでいてみんなが仲良しなんだよ。
それはどっかの世界で夢にまで見た風景なんだってね。


き色マカロンがさ、のど渇いたって言うから、水のみ場に連れて行ったよ。
そしたらさ、

蛇口から、ピュ~って水が出てくるのが、面白いんだって。
腹かかえて笑ってたよ。
なんだか僕もいっしょになって笑っちゃった。
懐かしい感覚。
ピュ~で笑うのって。


それからね、みんなでブランコにのったんだ。
ブランコが行ったり来たりしながら、僕らはこんな話をしたよ。
「行ったら来るんだよ。来たら行くんだ。」
「キミの思ってることは、キミだけの”モノ”じゃない。」
「僕が思ってることは、キミが思ってることでもあるし、
キミの思ってることは、僕の思ってることでもあるんだ。」
「だから、”失う”なんて悲しみは、ここには必要ないんだよ。」
「はじめから全てが、キミにも僕にもあるんだ。」
「ただ、はじめから無いものをあったように勘違いしてただけさ。」
「ここにあるのは、無いもの以上にあったものばかりなんだよ。」
「だから・・・・」
あ、そろそろ日が傾いてきちゃたね。


最後に砂場でお山を作って遊ぼうか。

マカロンたち、砂まみれになってお山を作ってた。
そして、そのお山に何度も何度もトンネルを掘ったんだけど、すぐつぶれちゃうんだ。
だから、僕がトンネルの掘り方を教えてあげたんだ。
こんな僕だって、子供の頃にはトンネルを掘ってよく遊んだからね。
僕は少し得意げに、トンネル掘りのかつての腕前をマカロンたちに披露した。
その最中、僕はハッと”何か”を思い出したように、夢中になってトンネルを掘った。
その”何か”をこの手でハッキリと掴み取ろうとするかのように。
そっと息を殺し、静かに砂をつかんでは出し、つかんでは出しの作業を繰り返した。
”思い出した何か”は、きっとトンネルが貫通した先に見える景色の中にあるにちがいない。
そして僕は、その景色の中で思いっきり、空気が吸いたかった。
懐かしく新しい景色と新しく懐かしい空気、そして無色透明な記憶。
きっと僕は、本当の景色を自分の目で、自分の手で、自分の肺で確かめたいんだ。
ただ、それだけだ。
だから、僕は掘った。
トンネルが完成するまで、夢中になって、穴を掘った。


え?なんか変?

変って、どこらへんが?
いやいや、気のせいでしょ?

そんなこと、あるわけないですよ。
いくらなんだって・・・・そんなこと・・・・
あ”ぁ~あ!!やっぱりなぁ!
やっちまった!
失敗しちまった!
あと少しだったのに!
・・・・一瞬の気の緩みだった。
あと一歩でトンネルが貫通するって時に、なぜだか子供の頃のある事を思い出してしまったんだ。
ある時、アリの観察に夢中になっていた時があって、そしたら友達に
「そんなに夢中になったらオマエ、アリになっちゃうぜ!」って言われた事があったんだ。
その事を・・・・不意に思い出してしまって・・・・。
なんでこんな時に・・・・そんな事を思い出すんだ・・・・?
え?まさか!マカロンといっしょに夢中になってる僕の顔が?
マカロンになっちゃってるって?
僕がマカロン?
よしてくれよぉ~、そんなはずないじゃぁぁぁあん。ないじゃぁぁぁあん。
ここは現実だよ~。
え?あれ?ちがうっけ?
ここは夢で、あっちが現実だっけ?
いや、こっちが現実だっけ?
いや、どっちがどっちだっけ?
れれれれれ?
まぁ、どっちでもいいや。
どっちにしたって、自分のやる事が見つかったわけだしさ。
それに「夢中になる」って事の意味がわかったような気がするんだよ。
どっちの世界にいたって、夢中になれば、そこは夢のように楽しい世界なんだ。
それさえ知っていれば、トンネルの向こうだろうがこっちだろうが、どっちも同じ世界なのさ。
え?トンネルいつ完成するのかって?
まぁ、今度にしようよ。
なんだか、疲れちゃったよ。
それにさっきから、妙に頭が重いっていうかさ、
かったるいっていうか、甘ったるいっていうか。
「・・・・・・」
「・・・・・・え?うそ!」
「・・・・・うそだぁ!」

「うそうそ!これ、うそだよ!これ夢だよね~?」
「うそぉぉぉぉおおおだぁぁあああ!」

・・・・まだまだキミはわかってないようだね☆
「それじゃ、またね。次の夢で逢いましょう。」
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