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ご無沙汰しております☆

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皆さん、お久しぶりです。
気まぐれは、今も健在。
ふわふわ~っと漂うケサランパサランは、
多くの想像力に助けられ、
素直にそこへ着地した。
着地した時の衝撃は、
何も背負っていない分、ほぼゼロで、
気持ちの良い着地ができました☆





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「カイテンウンドウ」

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①「カイテンウンドウ」

回転させて、あらゆる物事を展開せよ。

回転を躊躇(ちゅうちょ)するな。
そうすれば、君の知っている世界が息を吹き返す。

君にとって必要のないものは、その回転の力によって全て吹き飛ばされ、
君にとって本当に必要なものだけが残る。
身軽になった君は、あらゆる域を突破する力を手にする。

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②「テンカイ」「ウンドウ」

君のその力を思いの限り、
回転の威力に同調させて出し尽くせ(アクション・運動)。

それによって、君がまだ知らなかった世界が目の前で次々と目を覚まし、
それぞれがそれぞれの役目を伴って運動を開始する。
その時、停滞していた君の世界が見事に躍動し始め
あらゆるものが連鎖的に展開し始めるのだ。

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③「テン(点)」「ウンドウカイ」

君はこれからたった一人で運動会をやるようなものだ。
君の知らない運動会。
とてつもなく広大なグラウンド。
そんな君を鼓舞するテーマ曲とは一体なんだろう?
我々が知っている世界の事をまだ知らなかった幼い頃の君が
一番よく知っているはずだ。

そこには競うべき相手などはいないし、
観客も誰一人としていないが、
そのかわり、君は勝ちも負けもない。
なぜなら、君を判断しようとする人が誰もいないからだ。
だから、君は何をしてもかまわないのだが、
そこでは君にできる事しかできないのだという事を
今のうちに知っておいた方がいい。
そして、君にできる事を今までやってこなかった事も
併せて知っておく事だ。

そこには君に必要なもの全てが用意されており、
それらをフルに活用しながら君が走っていくためのレーンがあるだけだ。

0(ゼロ)からスタートして
100点満点を目指そうなどという生き方など存在しないのだ。
どうしても点数で物事を見、自分のアイデンティティを支えたいのなら、
君を含めて世界中のあらゆるもの全てが今すでに100点満点なのだと知れ。
又は逆に自分を含めてあらゆるもの全てが永遠に0点であるとしてもいい。
そうすれば、0と100の狭間で苦しむ幻想から簡単に逃れる事ができるだろう。
本当は0と100の狭間の苦しみから追いかけられた人間や
逃げ切った人間などというものはいない。

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④「テン(天)」「ウン(運)」「カイ(開)」

だが、何のために?
何の為かは、過去の君がいる以上気づくことはない。
君はずっと今まで、君の過去を先頭にその後ろを走っていた。
だから前も見えずに君が今どこを走っているのか
何に向かって走っているのか
自分でもさっぱり分からなかったのだ。
君がいつも見ていたのは君の過去の後ろ姿たちだ。
後ろをついていく君には、先頭を走っている君の姿が見えるだろうが、
先頭を走る自分の姿もまた、そんな過去の自分自身である。

そんな闇雲な分からなさから目を背けるようにして君は
藁(わら)をも掴む思いで目標を立てた
「過去の自分を追い抜きたい・・・・」

だが、回転をし始めた今の君とにって、
そういう目標は、たんなる幻想であった事を知っている。
本当は、始めから君の前にも後ろにも君の姿はなかったのだ・・・・

ほんの数秒前の回転を今この瞬間の回転が追い抜くといった発想は、
過去を貯蔵する脳内の回転不足かまたは回転の外からの刺激による
一時的な思考のマヒによるものである。
だが、「あれ?何かがおかしいな?」と思った時の意味もなく頭を振る動作によって
たいがいはそういった不具合の解消ができる。それは現代に生きる我々にとっての
先代から受け継いだ知恵の一つである。

回転に集中し、軸の真ん中でそれを知り、
前後的な距離感やタイム(時間)から解き放たれた君は
間違いなく君の”今”を走っているのだ。

あのコーナーを回りきれば
何か道が開けそうな気がする・・・・

(あのコーナーを回りきれるかどうかは、
僕がどれだけ意識を”今”という中心に傾けていられるかによるだろう。)

君の過去の道理にゆだねるのではない。
君の全ての運(今)を天にゆだねて
持続する回転力と共に己の未知(道)を開くのだ。

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⑤「ドウ」

”ドウ”を舐めてみた・・・・
最初は汗のようにしょっぱかったけど、
あらゆるものの味がしたように思う。
”ドウ”は”道”か。
人類が歩んできた あらゆる道か・・・・。
挫折したような道、曲がりくねった道、急な登りばかりの道、
道とは思えないような道・・・・
そのどの道にも行き止まりという道はこの世界にはない。
ならば僕の行く道は、どこに繋がっているというのだろうか?
道は未知であろうが、怯える事はない。
答えは君の”動”によって吹き出す汗の結晶が常に知っている。

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⑥「テンドウ」「ウンカイ」

もちろん僕は、地上のグランドを走っているつもりだったのだが、
身軽になった僕は、気付くと雲海広がる空の上を走っていた。
こんなに高いところまで・・・・小さな羽でたくましく飛んでいる赤い点を見た。
てんとうむし(天道虫)だった。

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⑦「あカイ」「テンドウ」「あウン」

空の上、僕のすぐ真上には
真っ赤な太陽(天道)があった。

赤い天道・・・・

あうん(阿吽)・・・・

僕は時間の壁を吹き飛ばし、
空間のバリヤーを飲み込んだ。
ようやく僕の人生が始まったのだ。

だがそれは僕の人生の終わりでもある。
そしてまた、それは僕の人生の始まりでもあるのだ。

僕が行く道は太陽が指し示すと同時に決まり、
そして同時に向かうべき場所へと僕は到達している。
そしてまた同時に僕は・・・始まっているのだ。

          
          ※
 
          ※

          ※

~今回の記事における制作メモ~

①先日、「回転運動」という言葉をふとカタカナ表記にしてみたのですが、そこから始まる作文を思いつくままに書いていこうと思いました。カタカナ文字を分解して入れ替えながら、それによって出来上がる新たな言葉をもとにあれこれイメージしながら文を構成していこうと思いました。ですが、「カイテンウンドウ」というカタカナから始まって、その限られた文字数を入れ替えて出来る言葉というのは、案外多くないですし、書き進めていけばいくほど、次なる文の展開すら怪しいままに、~だんだんと苦し紛れ的な文章になりかけてきます。もっといろいろな言葉の組み合わせが出来て、作文もスリリングな展開になるかと思ったのですが・・・・。そういった点は次回の参考にしようと思います。最後のひらがなの「あ」の挿入はズルです(笑)。でも、ある意味では「あ」は宇宙の始まりの「あ」であり、僕の始まりの「あ」であるのです。そこで「うん」と納得すれば「あうん」の完成です。あぁ・・・・なんと強引で意味不明な・・・・。そんな感じですから、作文の中身内容はともかくとして(笑)、なんとなくでも文の流れみたいな雰囲気が出てれば良しとしました。まぁ、緩~くも強制的なルールのもと、自分があまりコントロールできそうもない流れをあえて選択していく事は、とても不安なのですが、なにか今まで自分の視界に見なかったものが、予想外に引き出される気がして、自分としてはとても面白かったです。結果的にそういったライブ感覚で作文していった最中の自分の精神状態を書き記したような文になった感じです。



②この動画は、アニメーションを制作する為の遊びの一環として、挿絵とは別に描いたものをアニメーション化したものです。アップロード後の動画画面がどうしても小さくなってしまうので、動きが大変分かりづらいと思いますが、雰囲気だけでも・・・(笑い)。いずれこの場で集大成的なアニメーションが発表できると思います。と言いつつも、現時点でアニメーションをどのように作り上げていけばいいのか、本当はまだ何も分かっていないので、これから作り方を覚えます。そんなんで一体いつになったら出来上がるんだ?と自分でも少々そういった面で不安に思いますが、今、自分がアニメーションを作るという事が確かに分かっているので、すなわち、それは遅かれ早かれ出来上がるという意味で間違いないのです。ちなみにこの動画は自分にとって生まれて初めてのアニメーション作りとなりました。手始めにOS付属の簡易的な動画ソフトを使ってみました。

※アニメーション(英語: animation)は、動画(どうが)とも呼ばれ、コマ撮りなどによって、複数の静止画像により動きを作る技術。連続して変化する絵や物により発生する仮現運動を利用した映像手法である。略語はアニメ。~wikiより抜粋~

③文字をカタカナ表記にすると、それまでの見慣れた漢字表記から受ける瞬間的な印象や知識、経験といったものが湧いてこないというか、たんなる暗号文かなにかに見えてしまい、一瞬の間を置いて、ようやく頭の中でその言葉の理解がぼんやりと浮かんでくる。でも、その理解はどこかヨソヨソしいというか、自分の経験や記憶、世界観の入る余地のないような強烈な存在感としての形(未知のシンボル)として見える。それはどういうわけだろうか?人類にとって強烈な存在のうちのひとつであろう、どこかの星の宇宙人といったものと関係しているのではないだろうか?きっとそうに違いない!きっといるはずだ。カタカナの羅列を見ると、どうしても宇宙人がしゃべっている言葉のように見えてしまう人が!我々人類よりも遥かに頭のいい彼らの・・・どっちかというと友好的な方の宇宙人として・・・・「ワレワレハ・・・・」例のあれです。あれを思いついた人はすごいなぁ。おかげで、あのカタカナ語を見たのがきっかけで、それ以来、僕の脳みそはすっかりカタカナ=宇宙人語として定着してしまっているのだろう。カタカナ表記をすらすら読めて理解できる人は特別に訓練した人か、またはその人自体が宇宙人であるに違いない。そんな宇宙人の「カイテンウンドウ」という言葉の認識は、一体どんな認識なのだろう?僕は知りたい!
「キミミタイナ ボンジンニ イッタッテ ワカリッコナイシ・・・・キミハ アマリノワカラナサニ アタマノナカガ グルグルマワッテ ネツガ デチャウヨ オーバーワークハ コショウノモトダヨ」・・・・えぇ?頭がぐるぐる回るって、ひょっとしてバカにしてるぅ?(バカってカタカナ表記はなぜか親近感が湧くというか、身をもって理解できる。おかしいな・・・・)でも、心配してくれてるようにも思えるし、きっと彼らは友好的な宇宙人なんだろう。回転運動も軌道を描けば輪のように見えるし、友好的な証としての輪のイメージと一緒のものなのかもしれない。
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「幻想の目覚め、眠る根源④~」

コマ(独楽)が眠りに入る瞬間を見たことがありますか?
コマを回したことがある人なら、誰もが一度は見たことがあるかと思います。
僕は今でもコマを回します。指で回すとても小さなコマです。
そのコマの寝姿を見ているとコマと自分との間に程よい緊張感とでもいいましょうか、
あるいは凛とした意識のようなものが生まれ、お互い媚びる事もなく、
かと言ってお互いが無関心なのでもなく、どちらも対等の次元で、
”ただ、そこに在る”といったとてもシンプルな共通認識に包まれる気がします。
その瞬間、僕はこう思うのです。
この世界は、あるがままの下において、全てが自由なのだと。

「眠る独楽に見るあの言葉」

心の中で、
あれはいいよね~とか
これは嫌だなぁ~とか
こうあるべきじゃん?とか
これはこうしちゃダメだろ?とか
あれやこれやの議論をし始めるとしばらくはその様子を見ているのですが、
その議論がいっこうに止む気配がない場合には、僕はこのコマを回します。

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コマ自体のつくりの精度や回し方、軸の接地面の状態などにもよりますが、
コマは、回り始めてからしばらくすると非常に安定した回転状態に入ります。
その瞬間から、己の頭の中の”目の前で回っているコマ”という認識がふっと消え、
そっと静かにそこに自立しているただの不思議な物体のように見え始めるのです。
その時のコマの状態を「コマがねむる」と表現するそうですが、
僕にとってその光景は、何度見ても変わらずにとても不思議な光景として感じられます。
回すたびに、そのコマの寝姿に心を奪われるようにしてしばらくの間、見入ってしまうのです。

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そうしていると、さっきまで議論に夢中だった自分の心は、なおいっそう騒ぎ始めます。
心を奪われるなんてとんでもない!
眠ってるコマを見て、なにが見入ってしまうだ!
”寝入ってしまう”の間違いだろ!
コマもお前も居眠りなんかこきやがって、平和ボケもいいところだ!

そんな時の自分の心は、目の前の事から少しそれた所で主張します。
なんでもいいから発言しないと心が心でいられなくなる恐怖にかられるからです。

一見、止まっているように見えるが、これは確かに自分が回したのだから
回っているに違いないのだ。

いや、目で確認できないんだったら、コマは回っていないのと同じだよ。
いつだって、自分の目に映るものが正しいとしてきたじゃないか。

いやいや、ちがうでしょ、回っているんだよ。
でなきゃ、このコマはなんとなしに自立してるとでもいうのかい?
なんで、自立する意味があんの?そんなアホらしいことがあるかっての。

・・・・おまえら、バカ。
コマが眠りに入る原理ってのはだな、
回り始めた時のコマの傾きとは反対方向にも力が働いてだな、
それが徐々にバランスをとりながら直立した状態になると、
それがまるで止まっているかのように・・・・

いつまでたってもしゃべる心・・・・
心の宿主である私が、目の前のコマの不思議さに目を奪われるのを
必死に阻止するかのように、心から一時も目を離させまいとして・・・・。

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僕はコマを見ているが、僕の心は、コマを見ていない。
どうして、目の前のコマをおしゃべりすることなく
あるがままに知覚することができないのだろう?
でも僕は知っているよ。
僕の心だって、ほんとは知っている事なんだ。
心というのは、そういう側面も持っているんだってことをね。

コマは止まっているのか?
止まっているのなら止まっているんだろう。
コマは回っているのか?
回っているのなら回っているのだろう。

心よ、どっちだっていいじゃないか。教えてやるよ。
止まったり回ったりしているのは、コマではなく自分の心だよ・・・・。

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自分の心は、金属製のコマの表面に映る自分の心の姿を見ているんだ。

それを知る時、もう一度、僕の心が激しく揺さぶられる。
自分の目の前のものをありのままに見るという事は、
同時に自分の本当の姿を見るという事でもあるんだ。
そんな自分の姿を見て、絶句してしまうかもしれない。
気絶してしまうかもしれない。二度と見たくないと思うかもしれない。
でもそのような態度では、物事のあるがままの姿をも見ることができなくなってしまうんだ。
これは正しいとか、これは間違っているとか、
目の前のあるがままの姿とは関係のない事を
問題にしたがる心・・・・
思慮分別に必死な心・・・・・
自分だけを見ていてほしい・・・・
自分の事だけを考えていてほしい・・・・
それが、自分の心の本当の姿なのだ。
そんな自分の姿を無理やり美化するのでもなく、
かといって、けなしたり、卑下したり、
悲観したような眼差しで見るのでもなく、
眠るコマをあるがままに見ている時と同じように
自分の本当の姿をあるがままに見てあげる・・・・
本当は、なにも考えなくとも全てが見えている。
知っている。
あるがままの姿には、問題なんて存在しないのだ。
自分が、本当の意味であるがままの存在として、
あるがままに事を振る舞うならば、
そこに問題なんてものは、生まれようがないのだ。
あるがままに悪意に満ちてやろうなんてことも不可能だ。
あるがままに善意に満ちてやろうなんてことも不可能なのだ。

きっとそうに違いないと思う。
僕は思い出す。
あのおじさんには、問題など何ひとつ起こらなかったじゃないか。
起こるのは、無意味に騒ぎ立て、何から何まで問題にしたがる僕らの心の方だった。

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ねぇ、コマがね、
空気の布団に包まれて
気持ちよさそうにしてさ、
スヤスヤと眠っているよ。
コマも夢を見るのかな。
不思議だよね・・・・。

様々に湧き起こる感情は、心が最も得意とするところだ。
あのおじさんだって、色々と思うはずだ。
いい日もあれば、わるい日もあるに違いない。
道端に転がるウンコを踏んでしまった事だってあるだろう。
そのウンコをした犬に向かって、この野郎と思った事もあるに違いない。
誰かに騙されたことだっていっぱいあるだろう。
世の中を恨んだりすることもあったかもしれない。
でも、あのおじさんはそれさえも問題にはしない。
だから、実際に犬に向かってこの野郎と叫ぶこともなければ、
自分を困らせた時と同じように世の中を困らせてやろうなどとはしない。
なぜならあのおじさんは、どんな時だって、てっぺんに昇ったお日様が、
”あれは、お日様だなぁ”とただそれだけを感じる事のできる自分を
決して見捨てたりしないからだ!
だから、真夏の太陽を恨んだり、
凍りつくような真冬の曇り空に、太陽はなぜ顔を出さない!と、
叫びたくなる自分の気持ちとは全く関係のないところで、
あるがままの自由そのものを闊歩しているのだ。
一説によると、太陽にも寿命があり、活動を終える日がくるという。
人類は、どれだけ太陽の事を知っているのだろうか?
本当は、ちっとも知らないのではないだろうか?
知っているのは、太陽の事なんかではなく、
明日もまた昨日と同じように東の空から太陽が昇るという事を
当たり前のように思っている自分の心の方ではないだろうか?
だが、あのおじさんはそんな間違いは起こさない。
なぜなら、明日、突然太陽の寿命が尽き、人類の身に何が起きたとしても、
我々の本当の自由は覆されるものではないと知っているからだ。

そんなおじさんが、眠っているコマを見たら一体、何と言うだろうか?
きっとこう答えるにちがいない。

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「これでいいのだ」と。

バカボンのパパは、我々を含めて全ての存在が自由な存在であることを知っている。
自分の身に何が起きても、あるがままでよしとする事で、
我々は始めから自由であり、始めから平和である事を教えてくれているのだ。
バカボンのパパを取り巻くすべての登場人物のあるがままの振る舞いの中に
あるがままの自由そのものの姿を見る。
その自由の姿にこそ、自分の存在が溶け込んでいるという事を
バカボンのパパは確信している。
だからこそ、自分だけが自由であることなど決してありえないと知っているのだ。
もし、君が自由だと思うなら、この世界のあらゆるものも自由なのだ。
もし、君が不自由だと思うなら、この世界のあらゆるものも不自由なのだ。
そのどちらの場合にも一貫した自由を見、一貫した不自由を見るのなら、
どちらの認識であってもそれは正しい。
つまり、自分の自由をひとり占めする為に
相手の自由を奪おうなどという事は決してできないという事なのだ。
もしそれを心の欲するままに行おうとしても、
結局は自らの自由を自ら奪うのと変わらないのだから・・・・。

我々は、バカボンのパパと等しく自由なのだ。
なのに、すでに自由な我々が、遠くのどこかに自由とやらを見出し、
又は知らぬ間に人工的な自由を押し付けられ、
その自由を掴まなくては一生奴隷のままだなどと言い、
ならば我こそはと必死になって、時には誰かの自由を踏み台にしながら、
時には、時代によって色の変わる幸福や自由というものに点数を付け、
他人よりも1ポイント高いらしい自分の幸福度数に狂喜し、
その貴重な1ポイントを減らしはしないかと常におどおどしたりする。
1ポイントの幸福ぐらい、誰かにくれてやったらどうだろうか?
そんなバカな!だったら、1ポイント分かそれ以上の見返りがあるならくれてやる。
タダな自由や幸福なんて、この世にあるはずがないんだよ。バカ者めが!

・・・・我々は、一体いつになったら100点満点の自由が得られるのだろう?
まるで、自分の右手が無いと言って、自分の右手で自分の右手を掴もうとするぐらい
難しい事をやってのけなければ、自由は掴めないとでも言うのだろうか。

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しばらくすると、コマは重力の働くままに
回転力を失い、ふらふらしながら転がって、
最後には静止します。

すると僕の心が、舌の根も乾かぬうちにこう言いだします。
「もっと精度のいいコマだったら、もっと長く回っていられるんだろ?・・・・」

静止したコマは静かに言います。
「君の心はよほど精度がいいのだろう。口が回りっぱなしで、とどまることを知らないのだから。
それともなにかい?君の心というものが、静かにしている時をいまだかつて僕は見たことがないが、君の心のつくりはバランスの悪い粗悪品なんじゃないのかな。いつだってあっちへフラフラ、こっちへフラフラ。僕のねむりの状態をありのままに見てごらんよ。きっと君の心は、息をのんで静まり返るだろう。そして、重力のように重い心の足枷から解き放たれた君は、僕らと等しく自由そのものなんだと気付くはずだよ。分かるだろう?僕は君にとっては精度の悪いコマかもしれない。だけど、僕は自分が粗悪だとは、ちっとも思ってないんだ。僕を非難する君の心は、君自信を非難している事にほかならない。僕は今も昔も、これが僕のつくりの精度なんだ。それは諦めなんかではない。僕は与えられたありのままの姿を生きているだけだなんだ。だから、こんな自分じゃダメだとも思わない。だからと言って、そう思わない事になんの問題があろうか?問題なんてのは、君の心の中にしかないんだよ。」

・・・・そう、世の中は自分の意のままにならない問題だらけの世界だと心は思っている。
でもその一方で、この世界は自分も含めてあらゆるものが自由の中にあり、問題なんてものは
一つもないとも感じている。
もし、問題というものがあるとするならば、それは、あるがままの世界とは全く別の世界に
存在しているものなのだろう。いや、存在しているという表現が適切かどうかは分からないが、
それは正義っぽい正義が、最も正義っぽく輝くために悪っぽい悪の存在を用意しなければ
ならないのと同様に、自由っぽい自由には、不自由っぽい問題というものが絶対的に必要であり、
もし、その不自由っぽい問題というものが途絶えてしまう事態に陥れば、自由っぽい自由としての
存在自体が、”~ぽさ”で成り立つ危うい存在ゆえ、いとも簡単に消滅の危機に直面するだろう。
だから湧き出るようにして絶えず問題というものが生まれてくる必要があるのだろう。
でも、そんな事をコマがわざわざ僕に伝えてくれたわけじゃないって事ぐらい分かっているさ。
もし、これまでの事を、コマがしゃべってくれた内容の一部始終だなんて一言でも言おうものなら、
僕の心がすかさずこう言い出すだろう。

「なら、録音したテープを持ってこいよ・・・・」ってね(笑)。


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僕は、心の中で

>議論がいっこうに止む気配がない場合には、
僕はこのコマを回します。

>僕にとってその光景は、何度見ても変わらずに
とても不思議な光景として感じられます。

・・・・そう、これでいいのだ。










「バカボン」の語源は、現在公式には梵語の「薄伽梵」(ばぎゃぼん。仏、仙人や貴人の称号)に由来するとされている。これは「トリビアの泉」でも紹介された。 また、バカボンのパパの常套句「これでいいのだ」も「覚りの境地」の言葉である様で、レレレのおじさんも、お釈迦様のお弟子の一人で「掃除」で悟りをひらいたチューラパンタカ(周利槃特=しゅりはんどく) をモデルにしているという。~以上、wikiより抜粋~

「天才バカボン」の作者である故・赤塚不二夫さんの告別式の時、タレントのタモリさんが述べた弔辞の内容から赤塚氏の私生活そのものが、達観された境地であった事が見てとれます。

~以下、弔辞の内容から一部抜粋~
「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰(いん)の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

※全文の内容は、各自お調べ下さい。




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「かたちのない贈り物」

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「かたち」

かたち
かたちのないかたち
かたちのないかたちのなかの
かたちのないかたちたち

あたし
あたしのないあたし
あたしのないあたしのなかの
あたしのないあたしたち・・・・

そこからじゃ
みえないものが
だれにでも
みえるようになる
みえないかたちの贈り物

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あたしは、綺麗な包装紙でおめかしされて
誰かのもとへとプレゼントされる、
ぜんまい付きの
しゃべるぬいぐるみ。

でもね、あたしね、
顔がちょっとだけブチャいくになっちゃったみたいで、
おまけにしゃべることもできないこわれものみたいなの。
だからあたし、プレゼントになれなかった。

でもね、ちゃんとぜんまいもまわるし、
羽をはばたかせることだってできるのよ。

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それなのにあたし、
壊れものだなんて・・・・

どうして壊れものなの?
どうしてプレゼントになれないの?
ゴミってなあに?
捨てられちゃうってなあに?

捨てられるとどうなるの・・・・?

あたしいやよ・・・・
そんなのいや!
あたし、こわれてなんかいないもん!

ほら、あたし動けるんだよ。
小さな羽だって
うんと力強くはばたかせたら
どんなところにだって行けちゃうんだから!

あたしは、捨てられるために
生まれてきたんじゃないもん!

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あたし、誰かのプレゼントになりたい・・・・。





ねぇ、あたしプレゼント!お花さん受け取って

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・・・・そうなの。
ミツバチさんからプレゼントをもらったのね。
おかえしに甘い蜜をたっぷりもらったミツバチさんも
なんだかうれしそう

ねぇ、あたしプレゼント!車さん受け取って

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・・・・そっか、
もうお腹いっぱいになるくらい飲み物をもらったのね。
そのおかえしにみんなを乗せてドライブにいくんだって。

ねぇねぇ、あたしプレゼントよ!お山さん受け取って

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・・・・お山さんは、真っ白なセーターを着せてもらったのね。
そのおかえしに子供たちをそりで遊ばせてるわ。

ねぇねぇ、
ねぇったら、ねぇ、もう!
そこの立派な大木さん、受け取って

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ええ、大木さんも?
大地さんからプレゼントをもらったのね。
そのおかえしにおいしい木の実をみのらせるんだって。

ねぇねぇ、
あたし、プレゼントなの・・・・
ねぇ、聞いてるのぉ?

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ねぇねぇ、
あたしの話も聞いてよ
ねぇったらぁ

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ねぇねぇ、
ねぇ・・・・

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だ~れも
うけとってくれないや・・・・
あたしだって、すこしはやけっぱちになるのよ。

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あたしは喋ることができない
だからあたしのこと
だれも気づいてくれないのかしら・・・・


(だから胸いっぱいの思いが飛び立つの・・・・)

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あたし、プレゼントになりたい・・・・
だれか・・・・

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だれか
だれか・・・・


いけない
むこうから
あらしがくるわ!

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いそがなきゃ
いそいでみつけなきゃ・・・・


おかしいな・・・・

なんだか
羽が・・・・
うまくはばたかないよ・・・・

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あたしの体のぜんまい
もう、きれそう・・・・

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目がまわって・・・・
からだがいうこときかない・・・・

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    *

    *

    *

    *

あたし、さいごのひと巻きで
宇宙にとびだした。

とつぜん吹いてきた激しい突風に
さからうようにして

あたしのじゆうは
びくともせず

上へ上へと
舞ってゆく・・・・


どうして宇宙まできちゃったのか・・・・

あたしにもわからない

あたし・・・・
ひとりぼっちになりたくないのに・・・


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ぽつん・・・・とあたし

ふあふあしてる

浮いてるみたい

それにとっても静か

なにもかもが

スローモーションみたいに

見えるの・・・・




ふりかえってね
さっきまであたしがいた
地球っていう星をみたよ







きれいだな。








地球さん・・・・






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地球のみんなは
こんなにきれいなお星様に住んでることを
どれだけ知ってるのかしら・・・・


ほんとにきれい・・・・


ねぇ、地球さん、
あたしね、地球さんに生まれたのよ


だけど、自分が生まれたお星さまが
こんなにまんまるで
こんなにきれいな色をしているだなんて
ちっとも知らなかったの

地球にいるときは
わからないことなのかもしれないけど
今のあたしには見えるよ

あたし、地球にいる時ね
みんなの顔が
きれいなひかりに見えたの。
そのひとつひとつのひかりを
ず~っと遠く離れたところから見ると
ひとつの大きなひかりに見えるのね
それが地球さんだったのね。

みんな一人ぼっちじゃなかったもん
みんな何もしなくても
知らないうちに
何かをあげてて
知らないうちに
何かをもらってるの
そうやって
知らないうちに
いろんなふうにつながってて
まるで、地球さんに住んでるみんなが
手をつないでね
まあるくなって踊ってるみたいに・・・・
だから、地球さんはまんまるな形を
してるんだね・・・・


そう。わたしはみんながいてくれるから、地球という星として、きれいに輝いていられるんだ。君がぬいぐるみだろうと関係ないんだよ。わたしの星の下に生まれてきてくれるすべてのものが、わたしにとっては、大事な大事なものなんだ。君も立派に輝いていた。あの時、君の光は、確かに地球の光でもあったことを伝えておこう。わたしの星に生まれてくれて、ほんとうにありがとう。


ごめんね。
あたし、もっとはやく
気づけばよかった・・・・


あたしを産んでくれてありがとう


あたし、決めた!
あたしね、地球さんにプレゼントをわたすの


あたし、魔法のステッキを
もってるんだぁ

このステッキでね
みんなが住んでる
地球さんの顔を
やさしくなぞるようにね


きれいに弧を描いて・・・・






ずっときれいなまんまで
ず~っとまんまるでいられますように・・・って






そしたら、

まあるい顔がね、、

にこっと笑って・・・・


@個人制作_2013_1222_12_03.png


あたし、そんな地球さんがうれしかった










追記:※ブラウザによって挿絵の色合いが変わってしまう件についてですが、今のところ、Internet Explorerで挿絵を見た時の色合いが原画の色合いと一番近いように思われます。Fire foxやCrome、スマートフォンなどの環境下におきましては、挿絵の色合いが蛍光寄りのど派手な色味に再現されてしまいます。現在、カラーマネジメントおよび挿絵原画の色情報などに不備がないかどうか確認しております。

追記②:挿絵の色合いが派手に再現されてしまう件について~当方のPCモニターの輝度(明るさの調整)は、暗め(輝度5000K)に設定((※実際の白い紙の明るさに近づけている)しているため、一般のモニターよりも暗く表示されます。その環境下で挿絵などを調整してWEB用にデータ変換しアップしているため、通常の明るさのモニターで見た場合、色味が派手に再現されてしまいます。他にも、親友のWEBデザイナーから、WEB上での色の再現について色々とアドバイスを受けました。どのようなソフト経由でWEB用のデータ化をするかにものよりますが、原画をjpgデータにするよりもpngデータにした方がより原画に近い色合いになる場合が多いかなと思いました(現時点で)。今後アップしていく挿絵に関しましては、モニターの一般的な輝度やデータ化の仕方などを考慮しながら作成してまいりたいと思います。

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「幻想の目覚め、眠る根源~③」

「ひょっとしたら人間は、目を覚まして起きている間、それはほとんど寝ている状態に近く、就寝している時にやっと覚醒した状態になるのではないだろうか?」と冗談半分でもなく、そのように思うきっかけとなった事のひとつが、先日のUFOとの遭遇であります。我々の日常の下で起こる様々な出来事のうち、それについて自分が知っていると思っている事の範囲内、もしくは”常識”という皆が疑わない事を前提として成り立つ広く共有された認識の範囲内においての我々の意識の状態というものは、ある意味寝ている状態に近く、そのような状態の下で、たとえ常識では考えられないような不思議な出来事を目の当たりにしたとしても、その事を認識するための目は、起きていながら閉じられたままなのであるのかもしれない。朝起きてから、夜寝るまでの間、すべてが常識の範囲内で事が起き、そこに昨日までと同じ、自分の知っている世界が今日も維持されていた事に安堵して床につく。そうやって人間は、朝に「おはよう」といって常識の中で眠り、夜に「おやすみなさい」といって非常識な夢の中で覚醒するのです。

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それらについて僕が着眼しているのは、就寝時に夢を見ている時の自分の態度そのものです。例えば、日常では考えられないような出来事が夢の中で次々と起こったとしても、夢の中の当事者である自分にとって、それはなんら不思議な事ではなく、その非日常的な出来事に自分自身が素直に溶け込んでいる点にあります。ネコが喋っていたとしても、海がメロンソーダで出来ていたとしても、地球上で一番大きな蛇が、ニシキヘビではなく10両編成の電車だったとしても、なんら不思議に思う事なく全てはありのままに認識しているのです。~蛇電車のお腹の中を見ると、駅で食べられた人々がギュウギュウ詰めになって苦しそうな顔をしているのが見える。どうやら彼らはまだ生きていて助けを呼んでいるようだ。ならばと、常識では思いもつかぬ展開で彼らを救出することに成功する・・・・。とまぁ、そんな風にして夢の中の出来事は、当事者を含めて全てが同時性をもって瞬発的に展開されていくのです。まるで、その場で会った初対面の人とぴたり息の合ったダンスを踊り、次の瞬間にはまた別の初対面の人とダンスを踊り・・・・。夢の中で起こることのひとつひとつにはなんら脈略がなくとも、あらゆるものが完璧にシンクロナイズされていくのです。夢の当事者にとっては、日常の下での知識や経験に関係なく、どんな種類のダンスであっても、知らないダンスなんてものはなく、踊れないダンスなんてものもないのです。

はたして、そういった出来事は夢の中だけに限った、いわゆる絵空事に過ぎないのでしょうか?もしかしたら、日常においてもそのような不思議な出来事は常に起きていて、こちらの態度・振る舞い・心のあり方いかんによっては、それを現実として認識することができ、当然、自分はその不思議な出来事の当事者である事をも実感することが可能なのではないだろうか・・・・?

君は朝、会社に行くために家のドアを開け、一歩外に出る。そして二歩目の足がアスファルトを捉えようとするその直前、君は気づかぬうちに空を飛んでいて、そして気づかぬうちに大地に着地している・・・・夢の中では時空は関係がないのと同様に、君はずいぶんと長いあいだ空を飛んでいた・・・・だが、気づかぬうちの出来事は、日常のうちでは何も起こっていないのと同じ・・・・。君は気づかぬままに二歩三歩と会社に向かって歩き出している。だが、そんな君にも、空から撮影した航空写真のように広大な風景が君の脳裏に一瞬よぎり、「そういえば僕は子供の頃、将来は飛行機のパイロットになりたいと思っていたな・・・・」と不意にそんな事をなんの脈略もなく思い出したりするのだ。気づかぬうちにその夢が叶っているとも知らずに・・・・。君の日常は、まぎれもなく現実であり、夢で見る物語は、まぎれもなく絵空事の世界なのかもしれない。

だがそんなこと、いっそひっくり返してみたらどうだろうか?

とてもそんなこと出来やしないさ・・・・。

でもそれは、夢の中の君の言葉ではないだろう?

空を飛んだ君は、そんな風に思って空を飛んだのだろうか?

空を飛んだって、遅刻なんかしないさ。


@個人制作_2013_1223_01.jpg
ART:「くるくるすると、よろよろするのは世界の方」


ポールのミラクル大作戦より(OP/ED)

(OPより一部歌詞抜粋)

大人は誰も信じちゃくれない 
へんてこりんな世界に飛び込もう

(EDより一部歌詞抜粋)

大人は知らないだけなのさ
夢の世界じゃほんものだい




このアニメ、TOKYO MX にて再放送しています。


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「幻想の目覚め、眠る根源~②」


「UFO」といえば皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?

焼きそば?
UFOキャッチャー?
ピンクレディーのUFO?

さて、今年の10月になりますが、夜空に10個以上の光(UFO)の群体が僕の視界に突然現れ、一つ一つが鈍い光を発しながら、それはV字型に編隊を組み、やがてそれらが真横に飛行し始めました。
一つ一つの光は、菱形の形に見え、発光したその鈍い光の中にも暗いものや明るいものなど様々な色に見えました。前回の記事にて、気持ちを静かにして夜空をあるがままに見る~といった内容の事を書かせていただきましたが、その時もちょうどそのような状態で夜空を眺めていたところへの光との遭遇だったのです。

UFOとの出会いは、小学生の頃を含めてこれで2度目になります。
現在の自宅が、米軍基地のすぐ傍であることから、あれは戦闘機の夜間飛行訓練の様子であったとか、一般の旅客機であったとか、鳥が群れを成してV字に飛行していた様子だったとか色々と可能性を考えましたが、その日の夜空は雲一つなく、戦闘機特有の爆音もない全く静かな夜であり、昼間は昼間で空を飛ぶ鳥たちをよく見ていますので、鳥ではない何かであると判断いたしました。

実は、その光を目撃する1か月前から毎日夜空を眺めておりました。”※後知恵バイアス”といったご指摘は覚悟の上で申し上げますが、目撃する1か月前から夜空に対して何らかの予感めいたものを感じとっておりました。それは、何となくではあるものの、とても不思議な天体ショーが見られるといった感覚であり、かと言ってワクワクするとかドキドキするといったような胸躍る感覚でもないのです。それ以来、その予感のままに、何かを期待するでもなく、雨の日も嵐の日も関係なくただ淡々と毎日夜空を眺める事となりました。それからちょうど1か月目の夜空にそれが現れたのです。毎日のように夜空を眺めていると分かるのですが、旅客機の普段の夜間飛行経路にも当たらない事はすぐに分かりました。

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玄関を一歩出ると自宅の屋根と目の前の白い目隠しの塀とのわずかな隙間に空が見えます。僕は、その隙間によって切り取られた空間を「地中海(特に南フランス)の青い空」などと密かにそう呼んでいます。(※そのように感じるためには相当の勘違い能力(=超強力自己補正フィルター+あまり深く考えない適当能力)が必要なので、気安く人には言えません・・・・(爆)

~とある朝、朝食を終え、日本の友人から届いたメールを開き、返事を書きながら少し濃いめのコーヒー(お茶ではありません!)を飲み終えると、さっき作っておいたお気に入りの サンドイッチ(おにぎりではありません!)とサラダ・ニソワーズ(ニース風サラダ)(←お新香ではありません!)を持って近くの海岸(近所のドブ川ではありません!)へと外に出る。「まぁ。なんということでしょう~!この青空!やっぱり僕は南フランスに住んでいるんだなぁ」・・・・・・・・・・・・・・とある種おめでたいほどに本気で勘違い出来る脳みそが必要なのであります。特に地中海地方や南フランスにあこがれているわけではありませんが、少しだけ強がりを言わせてもらえば・・・・「こういうのは勘違いしたもの勝ちなんだぜ!南フランスの青空バンザイ!!~」

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と、それはさておき、UFOの話。「南フランスの青空」が夜になると上の図のような感じになります(笑)。

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夜空が見える幅は、屋根と目隠しの隙間50㎝~最長1mです。
その限られた隙間の空間にちょうどピンポイントで光が現れたのです。
現れてから1秒後には、それがゆっくりと真横に飛行し始めました。

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僕は、光が移動していく方向へと、心が奪われるままにそれを見続けました。

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だんだんとそれが僕の視界から遠くなり、小さくなりかけた頃、不思議とある感覚が伝わってきました。その感覚とは、”光はUターンしてこっちに戻ってくる”という感覚です。
それは、言葉の伝達方法とは違う、何か思いの波長が飛来して伝わってくるようなそんな感覚でした。

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その光は、僕に伝えてきた通りに引き返すようにしてこちらへ戻ってきました。

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だんだんとそれがこちらに近づいてきた時です。
ふとあることを思いました。
「カメラ!カメラ!」

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「カメラ!カメラ!こんな不思議な事って・・・カメラで撮らなきゃ!」
まるで我に返ったようにそういう思いにかられ、僕は急いで部屋の中からカメラを持ってきました。
それは数秒のことです。僕の感覚では、あの光はまだこちらに到達するかしないかといった距離にいるはずです。・・・・ですが、あの光はどこにもありませんでした。別のところに行ったのかと思い、あれこれ見回してみたのですが、そんな気配すらありませんでした。跡形もなく消えていたのです。

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僕はUFOというものが本当に存在しているとか存在していないとか、国家機密でそのような飛行物体を開発していて、人間が密かに飛ばしているんだ~といった議論よりも、とても現実とは思えないまるで夢ような光の演出を見ることができた事が素直にとても嬉しいのです。

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ただ、あの光の飛行隊がこちらに引き返してきた時、カメラ!カメラ!と・・・・つまり、ざわめきたった自分の胸の内をあの光の群体に見透かされてしまったような気がしてなりません。あの時、いつもの夜空を見る時の静かな感覚から外れて、ざわついた胸騒ぎに心を動かしてしまったから光は姿を消してしまったのだという事が、どういうわけだか確信が持てるのです。

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その確信について少し補足説明してみますと、先ほど、「南フランスの青空」のくだりで勘違い能力(自己補正フィルター)という話をしましたが、今回の光(UFO)の目撃に関して、自分があまりにもUFOが見たくて、見たと勘違いできるように自己補正フィルターが働いてしまい、お望み通りに勘違いしてしまった・・・・という事なのではなく、カメラ!と思った瞬間から自己補正がかかってしまったのだという事です。なにも不思議な光景に出くわしたからと言って、その様子をカメラで収めなくてはならないという発想は、一見ごく自然な発想のようではありますが、僕にとってはそれは事の流れとは全く関係のない”つかぬ思い”であり、”邪な発想”でしかなかったのです。また、そんな思いに端を発してか、目の前の現象そのものからどんどんと遠ざかる方へと更なる補正がかかります。”そんなものは存在するわけないさ!勘違いに決まってるだろ!”という僕の中の常識という強力な補正(安心を維持するための補正)があの瞬間に働いてしまった。その後に、どこを見渡しても光が見えなかったのは、実は、光が消えたからではなく、僕の方がその光を閉ざしてしまったから・・・・。そんな思いの一部始終をあの光たちに見透かされてしまったように感じるのです。

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~つまり、それは、”自分はしっかりと見ている”という感覚の下では、”自分”が知っている世界以上の事は何も起こらないという事なんだよ。やっかいな事にそれは同時に”自分が知らない事は何も起きてほしくはない”という思いも併せ持っている。だって、自分の知らない世界が突然起こったとして、それまで自分の築き上げてきた無事や平穏が、それによって破られるのは当然ご免被りたいわけだし、それが日常での当たり前の感情であったとしても不思議ではないし、悪い事でもないのだろう。しかし、”しっかりと見る”という事と”自分はしっかりと見ている”という感覚は似て非なるものなのだと僕は思っています。”自分はしっかりと見ている”という感覚から”自分”という感覚がスッポリと抜け落ちてしまった時、それは見ている対象へと溶け込んでゆく瞬間なのであり、その時はじめて覚醒という名の下で、本当の意味での”しっかりと見ている”という状態になるのだという事です。

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世の中には、不思議な未確認飛行物体を目撃して、カメラに収めている人も数多くいる事と思います。僕の場合は、小学生の頃も含めて、カメラに記録するという事は叶わなかったのですが、そんな遭遇の仕方が、UFOと僕のかかわり方なのかもしれない。それならば、次に出会う時こそは、僕はありのままにそれを見上げて、できれば最後まで温かくそれらの飛行のゆく末を見守るままにいたい。

でも、もし、突然それらが自分の目の前まで来て着陸でもしたら?
そして、その光の中から、自分の常識の範疇ではとても理解できないような・・・・

動く有機体・・・・のようなものが現れでもしたら?
挙句には、「乗ってみるかい?」などと、それに誘われでもしたら・・・・









僕は乗ることになると思う。

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「幻想の目覚め、眠る根源~①」

現代人は、とかく本質的な事には眠らされ、どうでもいいことにばかり覚醒させられる。
別の言い方をするならば、我々は、起きながら眠り、眠りながら起きているのだ。

                          ※
                          ※
                          ※

~寝ている時に見る夢については、様々な見地から様々な形で述べられているという事は
皆さんもご存知かと思う。例えば、心理学の分野であったり脳の働き、睡眠のメカニズムなどを研究する専門分野であったり、又はそれが、神秘的な観点から呪術的に語られているものだったり・・・・。

だが、それだけではない。
娯楽的要素を含みながらもアニメーションや小説、映画といった想像的な作品において、
ストーリーの中でそれが巧みに表現されているものも多い。
僕は最近、そんな「夢」の世界を題材にしたアニメーションなどに色々と興味を持ち始めている。
その中でも、作者は特に意識していないのかもしれないが、一見重要ではないようなセリフの中にも何か非常に暗示めいたものとして、僕の感覚に引っかかってくるものがよくあるのだ。


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ART:習作~「Peachhul Moon」

                          ※
                          ※
                          ※
「夢の中の出来事は、幻想だろうか?」

人間にとっての大切な何かに気づくとき、同時にそれは、

不必要な何かを眠らせることでもあるのだと思う。

例えば、夜空の星を自分にとっての何か大切なシンボルとして、それを胸に秘めているような人は

きっといると思う。

都会でそういう星に出会いたければ、まずは静かに眠る事だ。

日常の騒がしい胸の内を静かに落ち着かせ、それを眠らせるのだ。

そうやってみんなが瞼を閉じれば、町の騒々しさも静まり、明かりもひとつふたつと消えていき、

やがて夜空には無数の星々たちが、姿を現すことになるだろう。

だが、そんな光景もざわついたままの心にとっては、無性に心細く思えるものであり、

どうにもならぬ胸騒ぎが込み上げて、更なるざわつきにじっとしていられなくなる。

だが、もし君がざわつきもせず、無心で夜空を見ることが出来たなら、

君の目には、寝ている時に見る夢の世界と寸分違わぬ世界が広がっているはずだ。

だが、何も驚くことはない。

君が夢を見ている時と全く同じようにその光景を当たり前のように受け入れることだ。




君は現実にいながら夢のような体験をしている・・・・・。

その時の感覚にこそ、僕らにとっての大切なものとは何か?の答えがある。




言葉にしなくてもいい。

いや、日常に戻った君が言葉にしようものなら、きっと頭の中の混乱を招くことになるだろう。

言葉で具体的に述べる事などは、決してできないのだ。

なぜなら、君が体験したその光景は、日常の君自身の感覚を超えた、

宇宙そのものの体験だからだ。

自分という意識の輪郭がそれを体験したのではなく、

君そのものがそれに溶け込んでいったのだ。

その時の君は、宇宙そのものなのであり、君の意識の輪郭は完全に消滅している。

だから、日常に戻った君が、自意識の輪郭上でそれを語ることなどできやしないのだ。

まるで、ついさっきまで見ていた夢をなかなか思い出せないもどかしさのように・・・・。

そういった事も含めて、自分の自意識の輪郭とその輪郭が溶けてしまった時の

言葉にできぬ感覚とを知った時、君が胸に秘めたシンボルと初めて一体化できるだろう。

それの感覚は、君がどんな状態であっても永遠に続くものとして・・・・。

そして、そういう君が日常の下で生活している姿こそが、

全ての人々への最大にして最高の語りとなる。





「みつばちマーヤの冒険・ED」
この歌は、さらっと大事なことを伝えてくれます。星の消滅と誕生、夢が聞かせてくれるはなし。
この場合の夢とは、その夢を生み出す自分自身の事であると思います。
自分が自分に聞かせてくれるのです。
ちなみにこの曲の歌詞に登場するスイレンの花ですが、漢字で書くと水蓮ではなく、「睡蓮」と書きます。

「みつばちマーヤの冒険」allcinemaより抜粋~
「ドイツの小説家W・ボンゼルスの代表作をアニメ化した、昆虫を擬人化する趣向の日常メルヘンアニメ。生まれたばかりだが、好奇心はとても旺盛なみつばちの少女マーヤ。その探求心のとどまることはなく、教育係のカッサンドラ先生から次々と知識をねだる。やがて巣の周辺の花の蜜を取りつくしたマーヤは、新たなお花畑を求めて外界に出るが、そこには全く知らない新しい世界が広がっていた。追ってきた仲間のウィリーとともに、マーヤは未知の世界のときめきを味わう。「世界名作劇場」の日本アニメーションが、ドイツの映像会社ペータフィルムと共同製作。なお「チータ」こと人気歌手の水前寺清子が「チータとみつばち合唱団」の名前で、合唱団とともに主題歌を熱唱している。

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ご無沙汰しております。

@個人制作_2013_1103_15.jpg
ART:「夢の浸食」~ステッカー+照明器具+Digital ~Mixed Media


長らくお休みしてしまいましたが、当ブログでの活動を再開しようと思います。

さかのぼること一昨年の記事となりますが、

いまだ未投稿のままの「神鳴りの来訪~後編②完結」にて、

当時の自分の体験を通して観た人間の極限なまでの素の形、意識の果て、

その存在の場所をなんとか描き記そうと、活字なり挿絵なりといったあらゆる手段にて

何度もそれをトライしておりましたが、自分の持っている能力ではなかなか簡単には

表現させてもらえず、体中が痒くなって身悶えるようなもどかしい思いとやらも、

やがては懐かしく、流れゆくたんたんとした日々(時間)の中で、

少しずついい加減に冷静になってゆく自分がおりました。

そのような経緯の中、この度、当ブログでの活動再開に至る、ある結論に達しました。

「神鳴りの来訪~後編②完結」の記事を完成させる事よりも、今後ブログでの活動を通して、

部屋中に山積している走り書きや無数のスケッチを寄せ集め、

それらが断片的なままの形であっても、その時その時のベストな表現を描き残していきながら、

いずれ、あの時目指したあの場所に到達しようと思います。

当初、当ブログのタイトル「Angels line」に込めた思いや願い、

インスピレーションなどを原動力とする、とってもエコな乗り物に今一度乗車して、

一見なんの変哲もない日常の景色からこぼれて見える

非日常的(ミラクル)な世界の探求(ドライブ)に再度出発いたします。

いずれ、このブログでの表現活動によって積み重なっていく軌跡の中から、

一本の道筋のようなものが、ふと浮かび上がるのをついに目にした時は、

迷わずそれを辿っていって、夢にまで見た最高の景色を描けたらいいなぁと思います。

~では、あらためまして、出発進行!!


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2012

明けましておめでとうございます。
当ブログ、昨年の10月より仕事で出張作業に出かけてからというもの
その後のブログの更新をえらい長々~とサボったまんま・・・
ついには年をまたいでしまいました。
特に病気になってしまったとか、ブログに対して投げやりになってしまったとか、
そういうことではありません。
ある心境の変化で、ちょっとばかり私生活のリズムを変えてみようと試みたところ、
それに3ヶ月の期間を要してしまいました。

長々とご心配をおかけしてすみませんでした。
近々、ブログ訪問ならびに記事の再開をしようと思っておりますので、
皆様にお変わりなければ、昨年と同様、今年も宜しくお願いいたします。

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神鳴りの来訪~後編(長文):①

「神鳴リ~前編」からの続き~

~「病気や事故で死の淵を彷徨い、九死に一生を得た人の生への喜びや実感、

神秘的な体験といったものが語られるのをたまに目にする事があるが、

僕の場合はそういった、自分が生きていた事に対する喜びというものが、

全く無かったわけではないのだが、自然の脅威というものを目の当たりにして、

”自分は何者でもなかった”という

例えようのないほどの衝撃の方が、生きていた喜びを差し置いて強かったように思う。

ところがその事こそが、自分の生への喜びをよりいっそう強く実感するに至る

とても大切な要素であったのだと確信する。

それは今も尚、そしてこれから先の自分の生(命)においても、

とても重要な事として受け止めている。」~

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落雷のあった翌朝、現場では緊急ミーティングが行われ、雷に対する危険予知の徹底が促された。

どうやらあの落雷は、外壁の足場も伝ってきたらしく、数人の職人が感電したが、

手に少しのやけどを負った程度で大事には至らなかった。

自分はというと、一夜明ければスーパーマンのような超人に生まれ変わっていて・・・・

なんていう事はなく、まるで何事もなかったかのように怪我をした箇所も見当たらなければ、

体のどこかに変調をきたしたというような自覚もなかった。

強いて言うならば、体の内部が妙にざわざわというか、ふわふわというか

妙な感覚が残っていて気味が悪いなといった程度であった。

落雷のあった当日、あの時の状況を一応は監督連中に報告しておいたのだが、

自分でも一体なにがどうしてどうなったかなんて事をうまく説明する術もなく、

雷は建物に直撃したという大まかな見解で事は落ち着いたのだった。

後日、雷に関して色々調べると、落雷には直接受ける直撃雷と自分のそばに雷が落ちて

放電をくらう側撃雷とがあるらしいが、直撃雷に打たれても生きている人もいれば、

側撃雷に打たれて死ぬ人もいる。

実は、落雷に遭って死傷するケースのほとんどが、側撃雷によるものらしい。

そのように考えれば、自分は無傷でよく生きていられたなと思う面は確かにある。

「どうして僕は助かったのだろうか?」

あの時、三途の川を渡らずに引き返したとか、光に導かれるままに進んでいったとか、

普段の行いが良かったからだとか、何か特殊な信仰心を持っていたからとか、

電気に強い特異体質だったからだとか、雷と戦って勝ったからだとか、

打たれた時の服装や姿勢などの様々な好条件がそろっていたからとか、

自分が無事であった事に対する、思いつく限りのそのようなよくある手がかりは何一つ

自分に当てはまるところはないし、それならそれで助かった理由をつきとめたいと思う気持ちも

実のところさらさら無く、そんな事は自分の人生によっぽど退屈を感じた時にすればいいや

ぐらいにしか思っていないのだ。

                   ※

                   ※

                   ※ 
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ところで、人は、何かのきっかけで自分という存在の感覚を見失ってしまうことがあるらしい。

それはともすれば、とても恐ろしいことでもあるのだ。

人は皆、自分が誕生した日や名前、性別を持ち、生い立ちといった過程の中で築かれていった

性格やそれにまつわる長所短所、好き嫌い、そして様々な思い出や夢などを持っている。

やがて成人を迎える頃、自分なりの意見や、自分が何者かを表す肩書きといったものを

世間に対して明確に持ち始める。

キミはどんな人?と聞かれて、こういう者ですと説明して、

そうして初めて自分という存在感が、社会という輪の中で立ち上がるのだ。

組織の中で大切な業務を任される自分、世間に何らかの評価をしてもらえる自分、

異性から告白される自分、こうしたらどうか?こんなアイデアはどうか?と発言する自分、

君は優しいねと言われる自分、自分のこういうところは他人に負けないなと思える自分、

ガマンが足りないねと注意される自分、ちょっと人より収入が低いなと思う自分、

人から羨ましがられる自分・・・・・

人の数だけ、その輪の中で立ち上がる自分という存在感があるわけだ。

だが、その存在感というものは、自分の存在を認めてもらえる輪の中において、

常に自分は孤立したくないといった不安や恐怖を同時に抱いている。

当然ながら、大きな意味で社会というものからの疎外、抹殺は、

自分という存在感の消滅を意味し、同時にそれは、自分の命を奪われたに等しいほどの

死にも直結した最大の恐怖をも意味する。

たとえば記憶喪失といったものも、自分の存在感を社会の輪の中に失った事による

疎外感や孤独感といった死を連想させる恐怖の一種であるかもしれない。

ところが、それにちなんだ話で、人は自分の存在感(自己同一性またはアイデンティティー)

といったものが欠落してしまっても、その事自体が自分の命を脅かすものにはならないと

思えるような話がいくつか思い浮かぶ。

たとえば、以前観たある映画(題名は忘れた)で、主人公が記憶喪失になり苦悩に陥る中、

その主人公とその父親とで交わされる会話をなんとなく思い出す。

父:「君は何がほしい(したい)?」

主人公:「記憶を取り戻したい」

父:「なら、動くのだ。自分の価値(存在)を決めるのは記憶ではない。行動だ。」

他にもうろ覚えであるが、以下のような映画を観たことがある。

5人ほどの男が、ある倉庫かどこかで目が覚める。気づくと皆自分の記憶を失っている。

どうやらその5人は、お互い激しい乱闘を繰り広げる最中、

何かの拍子で皆、記憶の喪失と共に気を失ってしまったらしい。

物語が進むにつれ、どうやら、そのうちの2人は誘拐犯であり、

残る3人は誘拐された側の人質であるという事が判明する。

だが、そうとは分かっても自分は誘拐犯なのか、さらわれた人間の側なのか全く検討がつかない。

物語は進み、誘拐犯のボスが相手先との身代金の交渉に失敗したことを知る。

ボスが帰ってくれば、人質は殺されるという展開に・・・・。

皆、絶望感に包まれる。

おまけにその建物は、人質を閉じ込めておけるように簡単には出られない仕組みになっており、

どのようにすれば脱出できるのかも誰一人記憶にない。

もし自分が人質ならば殺されてしまうという恐怖と

いまだ自分は何者なのか分からないという二つの恐怖。

鏡に映る自分の顔を見るといかにも悪そうな顔をしてる。

ひょっとして、自分が誘拐犯なんじゃないかと思い悩む者もいれば、

何の根拠もなく俺は人質に違いないと思い込み、殺される恐怖に震える者もいる。

誰が敵で誰が見方なのか、それを判断する術は失った記憶の中に閉じ込められているのだ。

やられる前にやってしまおうか・・・・だが、そんな事に気をとられている余裕はなかったのだ。

やがて、記憶を失くした者同士にとっては、敵も見方もないという思いが、皆を一つにまとめ始める。

彼らは、全員で力を合わせて、その建物から何とか脱出することを目指した。


~といった具合である。

この話をヒントに、ひょっとしたら人間っていうのは、小難しくもなんともなく、

思ってる以上に実はとてもシンプルな生き物なんじゃないかと思えたりはしないだろうか?

自分が何者であるのかが抜け落ちてしまったら、残るのは自分の命ある姿だけだ。

そこで初めて、社会からの疎外感という死を連想させる恐怖というものが、

実際には自分の命を脅かすほどの威力も何もないと見破る事ができるだろう。

われが何者かという事は、人が行動する(生きる)うえで絶対的に必要な条件なのであろうか?

われが何者かという事は、人と人とが交流するうえで絶対に欠かせない要素なのであろうか?

われは何者かにならなければ・・・・それは死を意味するのだろうか?

人間社会の中で感じている自分という存在は、その輪の中から疎外される恐怖と共に

自分の命というものさえ脅かされるような得体の知れない恐怖に戦いている。

それらを踏まえて考えれば、ある意味、自分という存在感は社会の中でこそ立派に立ち上がる

”確か”な存在のようにも思えるのだが、実は常に危ういところでその消滅の危機に脅かされ、

社会(世間)と懸命に折り合いをつけながら必死に自分という物語を作り続ける事によってのみ、

その自分という存在の確かさが保たれるという、

自然界の自立した存在とは無縁の、どこまでも作り物の悲しい宿命を背負わされた

擬似的存在、または擬似的な生命のようにさえ思えてくる。

そういうものに対して、なぜ、自分の存在感の拠り所としてしがみついたり、

かつ、そこからの消滅の恐怖に怯えなくてはならないのだろうか?

ちなみに年間3万人を超えるほどの人々が自殺/自死にて自らの命を絶つというが、

その中には、自分の存在感を立ち上がらせてくれるはずの社会の輪から、

歓迎もされずに疎外され、生きることが辛くなったとして死に至った人がどれだけいるだろう。

生きていながら、自分の存在感をも与えてもらえず、孤独に染まる悲しみ、恐怖。

それならそうと、その社会の中で自分の存在を自らの手で頑張って必死に見出そうとするが、

自分のすがる社会の中には自分を照らしてくれるものが、ついには見当たらず、

自己の存在の消滅と共に自分の命の幕をも閉じる。

自分という存在感は、社会を拠り所としなければ、成り立たない側面を持っており、

その社会からこぼれてしまった自己という存在は、たちまち拠り所を失くし、

生きていながらにして浮遊する幽霊のごとく暗黒の世界を彷徨う事になるのだ。

そんな恐ろしい世界でもがき苦しむ人々に対して、

生きる力を見出せなどと一体誰が言えるだろう?

そんな君も明日は自分の番じゃないだろうかと心のどこかで怯えているはずだ。

だが、これだけは言える。

我々一人一人が感じている社会の中の自分という存在感を何らかの形で、

見失ってしまう事があっても、それは君の命さえも脅かすほどの恐怖ではないという事を。

もしかしたら僕は間違ってるかもしれないが、

我々が感じる社会の輪の中での存在感(アイデンティティー)というものは、

決して自分の命に根ざしたものではない・・・と言いたい。

仮に多額の借金を背負ってしまい、希望も失くし生きるのが辛いと感じる人がいるならば、

そう感じるのは社会の中の自分であって、決して君の命が発する問題なのではない。

借金を抱えて苦しむために生まれてきた命なんてどこにあるというのだろう?

君がいじめに遭い、社会から抹殺されるように君の存在を無視され、

苦しくて苦しくてたまらないと感じるのも社会の中においての自分という存在である。

だがそれは、君の命の存在とは全く関係がないものだ。

君の命は、いじめられるために生まれてきたのではない。

君の命は、無視されるために誕生したのではない。

その肝心なところを社会の中で生きる一人一人が見失ってはならない。

社会など所詮作り物なのである。

その社会の中で立ち上がる自分という存在感もまた、嘘っぱちの作り物である。

作り物に己の命をあずけてはならない。

君の命は、決して作り物じゃないのだ・・・・。

君の命はどんなに苦しい局面を迎えようともそれが尽きるまで、眩しく輝いていると僕は言いきる。

なぜなら、君の命の存在は、この社会が照らしてくれなくとも、

宇宙の成り立ちという巨大な輪が、君の命の誕生から現在、そしてそれが尽きるまで、

無条件で照らしてくれているからだ。

そもそも命そのものに生きる意味なんてものはない。

生きがいを求める命なんてものもないのだ。

命ある、ただそれだけで君が生きている意味があるのだから。

人間は人間だけの世界を築き、それを拠り所にし過ぎてしまったと同時に

その世界を守りすぎてしまった。

だが、その世界こそが、全てでないという事を一人一人が思い出さなくてはならない。

その世界にこそ、君が君の存在感の拠り所とする何かがあると勘違いしてはならない。

社会の中で叫ばれる生きがいや生きる意味、自分は何者なのだろうか?という問いは、

宇宙の成り立ちから遠く離れてしまった人間同士の退屈しのぎな遊びぐらいに思えばいい。

そしてまた、人間社会においての自分という存在感もまた、

宇宙の成り立ちから孤立してしまった事による孤独感や寂しさを紛らわすための

僕ら一人一人のささやかな自尊の気持ち~ぐらいに思っていればいい。

そうして思えば、君の存在感というものは人間社会の輪よりもっともっと大きな輪の中で、

それが命尽きるまで堂々と光り輝いているという事に気づくことだろう。

そして、自分の命の輝きという確かな道標を手にした君は、

人間社会の輪の中にあろうとも、必要以上に惑うこともなく、喜びや悲しみ、

楽しい事も苦しいことも含めた、君の人生においての全ての物語を

本当の意味で謳歌できるものと信じている。                       

                       ※

                       ※


実は、自分もまた、自分自身が身を置く社会の中で、自分の存在感というものに

全てを委ねるようにして生きてきました。

この社会においての自分という存在感、それこそが、この世で唯一の確かなもの・・・と

思っていました。

この上ない喜びも経験しました。どん底にて絶望の淵を彷徨い、

死にたいと思うほどの苦しみも経験しました。

他の人と同様に、自分もまたきっと特別な存在なんだと思えるような感覚にこそ、

生きる意味というものを感じ、そこに生きがいを見出してきました。

競争もいっぱいしました。負けて悔しいと思ったり、勝ってうれしいと思ったりもしました。

嘘をついて人を騙したりもしました。

騙されるやつも悪いと感じたりもしました。自分は騙されはしないと勘違いもしました。

ささやかな夢を叶えた事もありました。激しく恋愛をした事もありました。

いろいろと警察に捕まった事もありました。

ゴミを指定された日以外に出すと猫やカラスが喜ぶという事も知りました。

人込みを歩いていて、じゃまだじゃまだと思う事や、前を歩く人をとろいなぁと感じる事も

ありました。しかし、じゃまに思う人やとろいと思う人も自分が作り出しているんだなと

感じる事もありました。

空を見てるとほんとに気持ちいいなと感じる時がありました。

自分もまたそのように、社会にはとにかく色んな事を経験させてもらっているわけですが、

しかし、誤解を恐れずに言えば、そういう自分の存在感のみに根ざした生き方の中で感じる

喜びや悲しみ、辛さや苦しさというものは、必要以上にそれ以下でもそれ以上のものでも

ありません。

何をわかったふりなんかしやがって・・・・と思われるかもしれない。

しかしたとえ、これら自分の感じた事のほとんどが勘違いであったとしても、

少なくとも自ら死ななきゃならないような悲しみや苦しみ、恐怖なんてものはこの世にありません。

それらは、本当の意味での”命”に根ざした生きる喜びや悲しみ、苦しみといったものとは程遠い、

もしくは全く無縁の作りものであると確信します。

その思いは、自分があの時、落雷に遭ったあの瞬間、

自然の脅威を前にして”自分は何者でもなかった”という衝撃に由来するものです。

                      ※

                      ※

(※  自分の命という表現にはとても神経を使います。ここで述べる”自分の”という表現は、
   ”全ての命と繋がっている”という感覚のもとでの”自分の”という意味です。
   決して人間社会で言うところの”自分だけの”という感覚の意味ではありません。 
   ~今回、色々と書き記したいことが山のようにあり過ぎて、まとめ切れない事態に陥りました。
   このタイトルで延々と書き続けるのもアリなのですが・・・・・。
   次を~後半②として、このタイトル記事を完結させるつもりでいますが、
   書ききれなかった分は、少なくとも今後の記事に何らかの形で反映していこうと思っています。
   長文・駄文、失礼!長々と貴重な時間を割いてくださり、どうもありがとうございました。
   t-youha)










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